宇宙と脳/合原一幸
最近、理学系研究科・地球惑星科学専攻の先生方と、共同プロジェクトを企画する機会があった。異分野の先生方と議論するのは楽しいし、たいへん勉強になる。この議論を通じて、筆者の専門の脳と宇宙とのアナロジーを考えてみた。
近代科学としての宇宙研究の進歩にとって、まずは壁面四分儀や望遠鏡などの観測装置の発明が大きかった。様々な観測装置を自ら開発しながら、ブラーエが長年に渡って天体の軌道を観測し膨大なデータを蓄積した。このデータにさらに独自の火星観測データも加えて、見事な経験則を導き出したのがケプラーである。いわゆるケプラーの3法則はいずれも素晴らしいが、筆者が特に引かれるのは、公転周期の2乗と公転半径の3乗が比例するという法則である。よくこんな法則を見つけたものだ。この宇宙は(神が創った)単純で美しい法則がある、という確固たる信念なしでは、発見しえなかった法則であるように思われる。
このケプラーの3法則を数理的に導いたのが、ニュートンである。彼は、万有引力の法則と運動方程式によりふたつの天体の相互作用を記述する2体問題を見事に解くことによって、この偉業を成し遂げた。彼の仕事のスケールの大きさは、微分と積分も自ら生み出したという驚くべき創造性に見ることが出来る。
ちなみに、2体問題の解決は、同時に難問を生み出した。三つの天体の相互作用を考える3体問題である。当時の予想を越えて、多くの研究者たちの挑戦にもかかわらず3体問題は誰も解けなかった。それを解決したのが、最近ポアンカレ予想の解決でその名が一般にも有名になったポアンカレである。彼は3体問題が求積法では解けないことを示すことにより、3体問題を否定的に解決した。100年ほど前のことである。同時に彼は3体問題に今日の言葉でいう決定論的カオスを見い出し、カオスの源流のひとつともなった。
なお、現在では、スーパーコンピュータや多体系専用コンピュータを用いて超多体問題も研究され、宇宙の構造の解明にも迫りつつある。これらの研究の系譜は、計測技術→大量データ計測→経験則→数理モデルと理論解析→大規模解析、とまとめることが出来よう。
20世紀における脳科学の進歩を見ると、スケールこそ小さいが上記の宇宙研究とのアナロジーが見られる。まず、1940年代に微小電極が開発され、単一の神経細胞の応答が精度よく計測出来るようになった。また、1936年にはヤングがヤリイカの神経軸索が極めて太いことを発見した。神経軸索とは、脳内で情報を担う活動電位と呼ばれる電気パルスを伝送するウェットなケーブルのことである。通常この太さは、数ミクロンから数十ミクロン程度であるが、ヤリイカは太さ1ミリ近い巨大な軸索を2本持っている(巨大軸索と呼ばれる)。世界中でこのヤリイカの巨大軸索を用いて、活動電位パルスを神経細胞が生み出すからくりに関する研究競争が展開された。すなわち、微小電極という計測技術の進歩とヤリイカという神経研究にとって最適な生物の発見により、神経興奮現象(神経細胞が活動電位を生成する現象)に関する良質な計測データが大量に得られるようになった。 他方で、神経興奮現象のメカニズムに関しては、20世紀初頭から、様々な仮説が提案され論争の的となっていた。この論争に決着をつけ勝利者となったのが、イギリスのA.L.ホジキンとA.F.ハクスレイである。彼らは、1952年に一挙に4編の論文を発表し、神経膜の等価電気回路モデルを提案するとともに、神経興奮の動的過程を4変数の微分方程式(ホジキン-ハクスレイ方程式)で見事に定式化した。彼らは、この業績で1963年のノーベル生理学医学賞を受賞した。この式を下記に示す。
上記の式を見るとわかるように、この式はあまりに複雑すぎる。そこで、この方程式のエッセンスを残してかつ数学的な詳細解析可能な数理モデルを提案したのが、R.フィッツフューと東大工学部の南雲仁一である。この式(フィッツフュー-南雲方程式)を下記に示す。
その後、神経細胞や脳の数理モデル研究はさらに大きく進歩している。ミクロな方向では、ホジキン-ハクスレイ方程式をより詳細化して神経細胞の各部の定量的モデルによるシミュレータが開発されている。他方で、マクロな方向では、10万個以上の神経細胞から成るネットワークのシミュレーションやニューラルネットワーク(神経回路網)の理論解析などが活発に行われている。 ヒト脳の神経細胞数と宇宙の星の数は、ともに1000億個のオーダーで近い。脳と宇宙の解明は21世紀科学の主要課題となるであろう。なぜヒト脳は心を持つのか? このような存在が宇宙に創発した原理は何か? 興味はつきない。
(合原 一幸:生産技術研究所・教授)