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  • リトアニア史余談119:ヴィタウタス大公の后アンナ/武田充司@クラス1955

     1418年夏、ヴィタウタス大公は長年連れ添った后アンナを亡くした。彼女は大公の良き伴侶であったばかりでなく、活動的で聡明な女性であった。政治的な表舞台にも立ち、外交団の謁見の場にも同席した。大公が留守の時は、彼女自身が外交団をもてなし、交渉も進めた。また、条約締結の場にも大公とともに列席し、交渉相手と激論することすらあった。

     たとえば、1392年にポーランドと結んだ「アストラヴァス条約」のときも、アンナは大公とともに出席して重要な役割を果していた(*1)。また、1398年の「サリーナス条約」締結時には、彼女はドイツ騎士団代表と激しく渡り合ったが、そうしたことが寧ろ彼女の名声を高め、ドイツ騎士団の信頼を得る結果となった(*2)。
     その一方で、彼女は音楽を愛し、読み書きのできる教養人でもあった。あるとき、ドイツ騎士団の使者が彼女に本を贈ったところ、彼女はとても喜んでうけ取った。そうしたことは、当時は珍しいことだったから、ドイツ騎士団の人々は驚いたという。そこで、当時まだ発明されたばかりで珍しかったピアノ(クラヴィコード)を贈ったところ、彼女はこれが大変気に入って大切にしていたという(*3)。
     アンナが敬虔なカトリックの信徒であったことは疑う余地もない。1400年に彼女がマリエンヴェルダーの「モンタウのドロテア」の墓にお参りしたことはそれを物語っている(*4)。このとき、ヴィタウタスの実弟ジギマンタスが400人の護衛を率いて彼女に同行し、「モンタウのドロティア」の墓参のあと、ドイツに行き、ブランデンブルクの聖アンナ教会とオルデンブルクの聖バルバラ教会も訪れている。彼女のこのような旅はドイツ騎士団の協力なしにはできなかったはずで、そこから見えてくるのは、ドイツ騎士団と彼女の密接な関係である。ドイツ騎士団との非公式外交チャネルとして彼女が果たした役割の重要性を無視することはできないだろう(*5)。
     しかし、ヴィタウタス大公にとって忘れがたい最大の思い出は、アンナに助けられてクレヴァの城を脱出したときのことであろう(*6)。あのとき、夫とともに監禁されていたアンナは、召使の女を説得して、その女の衣装とヴィタウタスの衣装を交換させ、看守の目を欺き、彼を城から脱出させた(*7)。あの脱出がなければヴィタウタスの運命は尽きていたかも知れない。また、彼ら夫婦にはひとり娘のソフィアがいたが、ソフィアはモスクワ大公ヴァシーリイ1世に嫁いでいた(*8)。1411年7月、ヴィタウタス大公は従兄弟のポーランド王ヨガイラとともにプスコフを訪れたが、そのとき、ソフィアはリャザニ公フョールドやスモレンスクの総督らとともに父親一行を出迎えた(*9)。このときアンアも同行していたといわれていて、彼女は夫ヴォタウタスと共に娘ソフィアと再会の喜びを分かち合ったに違いない。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」の蛇足(5)参照。
    (*2)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」の蛇足(8)参照。
    (*3)ドイツ騎士団が彼女にクラヴィコードを贈ったのは1408年で、このとき、ポータティヴ・オルガン(portative organ)も贈られている。なお、このときは、まだ、1410年の「ジャルギリスの戦い」の前であることに注目すべきであろう。その後、1416年に、ドイツ騎士団は貴重なワインを彼女に贈っている。
    (*4)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」の蛇足(8)参照。マリエンヴェルダー(Marienwerder)は現在のポーランド北部の都市クヴィジン(Kwidzyn)で、当時はドイツ騎士団領であった。なお、「モンタウのドロティア」とは、1347年、当時のドイツ騎士団領内のモンタウ(Montau)で生まれた女性で、16か17歳の時、40歳代の気難しい刀鍛冶の男と結婚し、9人の子を産んだが、4人は早世し、4人は疫病で死ぬという不幸に見舞われた。しかし、彼女は結婚直後から幻視を体験し、やがて、夫とともにヨーロッパ各地を巡礼するようになった。ところが、夫の許しを得て彼女がひとりでローマ巡礼の旅に出たあと、夫が亡くなった。帰国した彼女は1391年にマリエンヴェルダーに移り住み、1393年にドイツ騎士団の許可を得て、マリエンヴェルダーの大聖堂の壁に修道者独房をつくり、そこに籠って、そこから決して出ることなく、日々祈りを捧げる厳しい信仰生活を送り、1394年6月25日に亡くなった。生前、彼女は、彼女の幻視体験の噂をきいてやって来る多くの不幸な人々に、幻視による慰めと助言を与えて救済した。彼女のそうした厳しい信仰生活と救済への献身によって、彼女は生前から聖女と崇められていた。そこで、彼女の没後、彼女をドイツ騎士団国家(即ち、プロシャ)の守護聖人とすることになったのだが、その手続きが1404年に中止され、そのまま放置された。しかし、1976年になって、時の教皇パウロ6世(在位1963年~1978年)が彼女を「福者」に列し、6月25日を「ドロテアの祭日」とした。モンタウ(Montau)は、現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork:ドイツ騎士団の首都マリエンブルク)の西南西約13kmに位置する町モントヴィ(M$0105towy)の旧ドイツ語名である。
    (*5)これを裏付ける逸話として、アンナが亡くなったときドイツ騎士団領内のすべての教会が彼女の死を悼んでミサを行なった、という話が伝えられている。
    (*6)「余談81:ケストゥティスの最期」参照。
    (*7)このとき夫とともに監禁されていたアンナには2人の召使の女が仕えていたが、その召使のひとりを説得してヴィタウタスのもとに行かせ、彼と衣装を交換させて身代わりとし、夫を脱出させたと言われているが、別の説では、アンナ自身が彼と衣装を交換したと言われている。
    (*8)「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照。
    (*9)このプスコフ訪問は、1411年2月1日に「トルンの講和」が結ばれてから半年後のことで、「ジャルギリスの戦い」の勝利を記念した凱旋パレードのようなものであった。彼らは5千人もの兵士を率いてルーシの地を行進してプスコフに行った。プスコフ(Pskov)はヴィルニュスの北東約400kmに位置する現在のロシア西部の都市で(「余談18:王殺しと聖人」参照)、当時はスモレンスク(Smolensk)などとともにリトアニアの支配下にあった。また、このプスコフ訪問のあとヴィタウタスとヨガイラはドニエプル川を下ってキエフにも行っている。この当時のモスクワ公国は、未だリトアニアを脅かす存在ではなく、ヴァシーリイ1世(在位1389年~1425年)は岳父であるヴィタウタスに表向きは臣従していた。リトアニアとモスクワの力関係が逆転してモスクワがこの地域のリーダー的存在になるのはヴィタウタス没後しばらく経ってからのことである。なお、興味深いことに、ソフィアの娘アンナは1411年にビザンツ皇帝ヨハネス8世と婚約しているのだが、数年後に早世した。
    (2021年12月 記)
    3 Comments »
    1. 主題と関係ない話しで大変恐縮ですが、ご教授お願いいたします。
      リトアニア大公国が戦争に強かったのは、モンゴル系、テュルク系の戦士を多く抱えていたからと勝手に想像しています。ルブリン合同の頃からリトアニアは衰退に向かいますが、モンゴル系、テュルク系戦士が多く南に移住し、ウクライナ・コサックの主要な構成員になったという話はありますでしょうか。

      コメント by 甲東 — 2021年12月22日 @ 19:20

    2. 甲東さんの質問に答えられるような資料を読んだことがないので何とも言えないのですが、コサックの起源については、植田樹 著「コサックのロシア」(2000年4月初版、中央公論新社)という本に若干の記述があります。しかし、確定した学説はまだないようです。
       なお、中世のリトアニア大公国が、モンゴル人やチュルク系ムスリムと関係が深かったことは確かで、たとえば、トクタミシュの息子のひとり、ヤラル・アル・ディンはリトアニアに亡命して、1410年の「ジャルギリスの戦い」で、ヴィタウタス大公とともにドイツ騎士団と戦っています。そして、そのあと、ヴィタウタスの支援でキプチャク汗国の汗になっています(在位1411年~1412年)。
       また、クリミア汗国の始祖ハージー・ギレイ(在位1441年~1466年)は、1397年に当時のリトアニアの都市リダ(Lida)で生まれ、リトアニアの支援をうけてクリミアで活動しています。
       そのほか、この「余談」の77番「リトアニアのタタール人」でも書きましたように、ヴィタウタスは多数のタタール人をリトアニアに定住させて、身辺警護などに使っています。
       しかし、その一方で、2015年9月に投稿した「余談49:戦うリトアニアのバルト族」で書きましたように、リトアニアのバルト族は建国の祖ミンダウガス王以前から、非常に活動的で、戦闘的な人々でした。それゆえ、当時は、手痛い敗北を喫して苦しむことも多かったようですが、数々の戦闘経験を積んで、彼ら自身が強力な戦闘集団になっていったと考えられます。したがって、軍事大国としての中世リトアニアの源泉はこのあたりにあったとも考えられます。
       軍事力と活発な行動力によって、支配地域を拡大したリトアニアのバルト族が、その広大な支配地域から兵力を集めることができるようになると、軍事力はますます強力になり、周辺地域のタタールなどを服従させて、戦力として利用することが可能になったのでしょうが、その軍事力の中核は、依然として、彼ら異民族ではなく、戦闘的なバルト族であったと推測されます。たとえば、ヴィタウタスの時代になっても、「ジャルギリスの戦い」で奮闘し、ノヴゴロドの勤務公にも迎えられたレングヴェニスのような優れた武将が一族の中から生まれていることからも、そうしたことが推測されます。
       したがって、中世リトアニアの軍事大国化は、異民族の戦闘集団がもたらしたというより、戦闘的なバルト族の活動の結果として異民族の戦闘集団が巻き込まれ、効果的に使われたのではないかと考えられます。
       いずれにしても、リトアニアの側についで活躍したタタールなどの一部が、リトアニア衰退後に、コサックになったとは考え難いのです。冒頭にあげた参考書にも、そのような記述は見当たりません。
       漫然としたお答えになってしまいましたが、この辺の事は不勉強で、よく分かりませんのでご容赦下さい。

      コメント by 武田充司 — 2021年12月25日 @ 16:58

    3. ありがとうございます。

      コメント by 甲東 — 2021年12月26日 @ 05:12

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