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  • リトアニア史余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト/武田充司@クラス1955

     ボヘミアのフス派の反乱を鎮圧するために、教皇マルティヌス5世と皇帝ジギスムントが協力して起した1420年の十字軍は失敗に終ったが(*1)、その翌年の夏、ドイツ諸侯は新たな十字軍を編成してボヘミアに侵攻した。これによってフス戦争は新たな局面を迎えた(*2)。

     ドイツの国境を越えてボヘミアの北西部に入った十字軍は、プラハの西北西約70kmに位置するジャテツ(*3)を包囲したが、フス派の援軍によって撃退されてしまった。この状況に苛立った皇帝ジギスムントは自ら軍を率いてプラハの東南東約60kmに位置するクトナー・ホラ(*4)を襲って占領した。これを知ったフス派の中の武闘派ヤン・ジズカ(*5)は、拠点としていたターボル(*6)から出撃して、1422年1月6日、「ドイチュブロトの戦い」(*7)でジギスムントの軍を撃破した(*8)。
     ところが、それから間もない3月9日、プラハにおいて独裁的権力を振っていたフス派の指導者ヤン・ジェリフスキ(*9)が、市議会によって逮捕され斬首された。そして、ウトラキスツ(*10)と呼ばれる穏健派の貴族たちが支配権を握った。一方、ターボルのヤン・ジズカは、フス派討伐十字軍との戦いを意識して、リトアニア大公ヴィタウタスの代理ジギスムント・コリブトを摂政としてボヘミアに招請した。しかし、ジギスムント・コリブトが軍を率いてプラハに到着したのは5月16日で、戦いはフス派の勝利で既に終っていた(*11)。
     それでも、首都プラハで実権を握ったフス派の穏健派ウトラキスツは、ジギスムント・コリブトをボヘミアの統治者として認めて迎え入れた。そこで、ジギスムント・コリブトは、ターボルのヤン・ジズカとプラハの穏健派の両者の支持を背景に、ボヘミアのフス派を統一してローマ教会と和解させようとした。しかし、その頃、ターボルでは、ヤン・ジズカのやり方に不満をもつ過激派が台頭し、プラハの穏健派との妥協はほぼ不可能になっていた。
    $00A0 $00A0こうして、プラハに入ったジギスムント・コリブトが、ボヘミアの再統一を試みて難渋している間に、神聖ローマ皇帝でありハンガリー王であるジギスムントが、自分こそが真のボヘミア王位継承者であるとの自負から(*12)、ポーランド王ヴワディスワフ2世(ヨガイラ)とハンガリーのケジュマロク(*13)で会談し、打開策を打ち出した。即ち、彼はヨガイラに対して、ジギスムント・コリブトをボヘミアから引き揚げさせるよう要求したのだ。その一方で、教皇マルティヌス5世も、リトアニア大公ヴィタウタスに対して、ボヘミアのフス派の支援を止めなければ破門して十字軍を差し向けると脅かした。その結果、1423年3月20日、ヨガイラとヴィタウタスは皇帝の要求をうけ入れ、ジギスムント・コリブトと彼の率いる軍隊をボヘミアから引き揚げさせることにした。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照。
    (*2)このとき、ドイツの諸侯は、フス派の宗教改革の波がドイツに波及するのを恐れてこうした行動を起したのだ。
    (*3)ジャテツ($017Datec)は、ビールに風味をつける高級品種のザーツホップの生産地として有名で、チェコのピルスナー・ビールはこのホップを使ったビールである。ザーツホップ(Saaz hops)の“Saaz”は“$017Datec”のドイツ語呼称である。
    (*4)クトナー・ホラ(Kutn$00E1 Hora)は銀の採掘で有名で、中世ボヘミア王国の銀貨プラハ・グロッシュはここで鋳造されていた。また、ここの聖バルボラ教会とそれを含む歴史地区はユネスコの世界遺産に登録されている。
    (*5)ヤン・ジズカ(Jan $017Di$017Eka)については「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」の蛇足(4)参照。なお、「ジャルギリスの戦い」(「余談107:ジャルギリスの戦い」参照)で、彼はポーランド軍に加わり、ドイツ騎士団と戦った実績がある。
    (*6)ターボル(T$00E1bor)はプラハの南方約75kmに位置する現在のチェコ南部の都市である。
    (*7)ドイチュブロト(Deutschbrod)はネメツキ・ブロト(Nemecky Brod)とも呼ばれ、プラハの南東約100kmに位置する現在のチェコ中部の都市ハヴリーチクーフ・ブロト(Havlickuv Brod)の旧称である。
    (*8)なお、この年(1422年)、ジギスムントは神聖ローマ皇帝として、ニュルンベルクに帝国議会を招集し、フス派と戦うための傭兵部隊の編成を提案したが否決されている。このように、ドイツ諸侯が皇帝に非協力的であったのは、ジギスムントがドイツを留守にしていることが多かったためだと言われている。一方、選帝侯たちは、1424年に、皇帝に対する自分たちの権限を強化しようとしたが、これは阻止された。しかし、フス派の影響がドイツに及ぶのを恐れた選帝侯たちは、「ビンゲン同盟」を結成して独自の動きを強めたため、ドイツ諸侯に対する皇帝の権威は落ち、フス派と戦う勢力の最高指揮官としての皇帝の権限も空洞化した。なお、ビンゲン(Bingen)はライン川観光で有名なリューデスハイム(R$00FCdesheim)の対岸にあり、その昔マインツ大司教が通行税を徴収するために建てたともいわれる「鼠の塔」で知られている。とにかく、この当時のドイツは、百年後に起るルターの宗教改革の時代とは違って、中世的な考え方に従ってボヘミアのフス派の宗教改革運動を危険視していた。
    (*9)ヤン・ジェリフスキ(Jan Zelivsky)は、フス派が1419年7月に市庁舎前をデモ行進したときの指導者である(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)。
    (*10)ウトラキスツ(Utraquists)は、カリックス派(Calixtin:calix=聖杯)とも呼ばれているので、日本では「聖杯派」と訳されている。
    (*11)実際、ヴィタウタスがジギスムント・コリブト(ジギマンタス・カリブタイティス:ヨガイラの甥)に軍を与えてボヘミアに向かわせたのはこの年(1422年)の春であったから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、これは全く遅すぎて戦いには間に合わなかった。
    (*12)「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照。
    (*13)ケジュマロク(Ke$017Emarok)は、現在のスロヴァキア北部の都市ポプラド(Poprad)の北東約12kmに位置し、ポーランドとの国境に近い山岳地帯にある小都市だが、当時はハンガリー領であった。
    (2021年9月 記)
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