半世紀前の記録から:チューリッヒ2/小林凱@クラス1955
記>級会消息 (2021年度, class1955, 消息)
更に歩を進めて橋の近くに行くとリマ―ト川と船着き場で、その背後にあるのが大聖堂です。(Fig.5)
こうして見ると改めてこの街で何時も活躍して居たのが路面電車だったと気づきました。チューリッヒ市内では到る所で走っていて、私も大変重宝しました。またこれらの写真から当時のチューリッヒの電車は、日本のと余り大きな差は無かった様に思います。
話が変わってイタリアにピエロ キアラ(Piero Chiara, 1913-1986)という作家が居ました。日本では余り知られていないが、それは日本語訳が無い事もありましょう。市井の人達の暮らしを描いて映画化された作品も多い作家です。彼は北イタリアのアルプスの麓、マッジョール湖畔で生まれ終生この湖水の地を愛しました。最初から作家では無く色んな仕事を経験したが、一旦書き出すと蓄積されたものが堰を切った様に溢れて多くの作品を出しました。また彼の奥さんはチューリッヒのお医者さんの娘でした。
キアラは大のファッシスト嫌いでムッソリーニの支配する当時の体制に反対する活動をしていたので、第二次大戦が進むと彼の命は危険に晒されスイスに亡命します。
後年キアロの人生と作品を描いたドキュメンタリーフイルムが作られました。その冒頭は美しい湖(マッジョール湖と思います)に彼自身の台詞(私は田舎の小さな町-Luino-で生れた)から始まります。この北イタリアの地方は私は残念ながら訪れていませんが、美しい景観で古くからヨーロッパの貴族や富豪が湖畔の館を競った処です。我々の間では、大橋兄が羨ましい旅をされこのブログで紹介されています。
このフイルムでの彼の亡命期間の描写は、ただBGMの中バーンホフシュトラッセが映し出され、其処へ路面電車が繰り返し行き来するシーンが暫く続くというものでした。これでチューリッヒとその町での滞在が表現されたという事でしょうか。私がこのドキュメンタリーフイルムを見たのは2010年頃ですが大変懐かしく思いました。それはこのシーンで埋もれて居た数十年前の記憶が呼び起こされ、単にチューリッヒの街だけで無くそこで印象に残った路面電車も一緒に登場したからだと思っています。
そこで話が現在の比較に移って、今日の日本では大都市は別としても、もっと人口の少ない都市でも路面電車は殆ど無くなってバスに代わり、そしてLRT(Light Rail Transit)は富山と宇都宮くらいでしょうか。しかしNetで見るとチューリッヒの街では電車が大きな顔で走っていて、この半世紀の間に大きな違いが出たようです。この辺のもっと詳しい状況をご存知の方はご教授頂ければ幸いです。
Fig.6 | Fig.7 | Fig.8 |
当時のチューリッヒ湖ではクルーズ船が就航していました。乗船場はバーンホフシュトラッセの端にあって、そこの公園には銅像(誰のか失念)がありました。(Fig.6)
湖はここから細長い半月形に伸びて、緩やかに左にカーブしてその奥にラッパースビル(Rapperswil)と云う町があり、そこがクルーズの終点でした。(Fig.7)
4月のある日曜日の午後、ぶらりとここのクルーズに行って見ました。片道約2時間余の旅です。< span>(Fig.8)
乗船を待つ列で二人連れのお婆さんに出会いました。可成り高齢だがシャキッとして元気そのもの、仲の良い二人で姉妹か友達か判りませんが、旦那衆は既に天国であろうと勝手に想像しました。ドイツ語で訊いて来たので私はドイツ語での会話は出来ないと言ったら、強い訛りの英語で”お若いの”(Young manーなお私は当時34歳です)と呼びかけて、どこから来たのとか一人で何してるのとかごく普通の身元調査でした。考えて見ると、この様な遊覧船に私の様な男が一人で乗るのは少なく、若しかするとサスペンス小説でも連想したのかも知れません。
このクルーズ船は席が詰まっているタイプで無く、小さなテーブルが各所に在ってその周りに椅子が配され、私は婆さん達と同じ処に座りました。
そのフロアーには小さなバーがあり出航するとすぐ開いてオーダーを受けました。婆さん達は早速迷わず注文して、運ばれて来たのがぬる燗のビールでした。これは運び手の付いた円筒型の容器にお湯が入っていて中に瓶ビールが立ててあり、お二人はそれをグラスについで飲み始めました。私の驚いた様子に、これが身体に一番良いんだよ、お前さんも試したらどうかと言われたが、私はぬるいビールなどとてもとバーで良く冷えたグラスビールを求めました。婆さん達は二人のドイツ語のおしゃべりに戻りました。
この日は穏やかな早春の午後で、船は途中Halbinsel.Auと云う古い砦のようなものがある村に立ち寄り、時間をかけて湖の奥の終点に着きました。約一時間この古い街を散策する中で、丘に登ると古城があると聞いたので行って見たが見るべきものは在りませんでした。(Fig.9) | |
Fig.9 |
日曜日の午後ですが、何か日が良いのかきちんとした服装の両親が、晴れ着の女の子を連れて歩いているのを幾組か見かけたが、何の儀式だったのか覚えていません。
帰途の船は時間も遅い所為か乗客も少なく、一人窓際の席で夕暮れの湖と連なる丘の村を眺めて過ごした。やがて日が暮れると両岸の家々に灯がついてこれは美しい眺めでした。
19時すぎ船はバーンホフシュトラッセの船着き場に帰着、さあ近くの何処かで夕食して宿に帰ろうかという一日でした。
2021年8月1日 記>級会消息
とても印象的な「チューリヒの思い出の記」ですね。僕は、残念ながらチューリヒは通過しただけで、この街を歩いたことはありません。しかし、これを読むと、やはり、何十年も前の時代の空気のようなものが感じられ、行ったこともない場所なのに、何か懐かしいという気分になるから不思議です。また、次に、何か書いて下さることを期待しています。
コメント by 武田充司 — 2021年8月1日 @ 21:55
今世紀に入ってチューリヒに‘00と’04の二回訪れているのですが、前回にも述べましたように、ここにはバーンホフ通りの青いトラムと一方通行の迷路以外にどうもあまり印象がないのです。不思議に思いながら、上手に街の雰囲気を描かれた二回にわたる貴兄のチューリヒ記を楽しく拝見しました。
コメント by サイトウ — 2021年8月2日 @ 10:34
コメント有難うございます。これが次のレポートのきっかけにもなります。
半世紀も過ぎますと記録したデータ以外は、微かな記憶にエピソードが残っているだけです。また適当な機会に取り入れたいと思います。
コメント by 小林 凱 — 2021年8月4日 @ 10:58