• 最近の記事

  • Multi-Language

  • リトアニア史余談110:「タンネンベルクの戦い」という記憶/武田充司@クラス1955

     1410年の「ジャルギリスの戦い」(*1)という呼称はリトアニアの人たちの呼び方で、ポーランドの人たちは「グルンヴァルトの戦い」といい、ドイツや広く西欧諸国では「タンネンベルクの戦い」として知られているが、これらの呼称はこの戦場近くにあった2つの村の名のどちらかに由来している(*2)。

     しかし、第1次世界大戦勃発直後の1914年8月26日から30日にかけて、東プロイセンに侵攻したロシア軍をオルシュティン近郊で撃破したドイツ軍は、その戦いを「タンネンベルクの戦い」と呼んで勝利を祝った(*3)。その結果、世界史には2つの「タンネンベルクの戦い」が登場することになった。
     ドイツ人にとっての「タンネンベルクの戦い」は、これで1勝1敗となったのだが、そのあと、第2次世界大戦の口火を切ったドイツ軍の1939年9月の電撃的ポーランド侵攻作戦は「タンネンベルク作戦」というコード名で呼ばれ、その作戦の成功はヒトラーとドイツのナショナリストたちの鬱憤を幾分か晴らしたようだ。こうした歴史を振り返ると、1410年の「タンネンベルクの戦い」の大敗北が、その後のドイツ人の心に如何に深い傷跡を残したかがわかる。
     19世紀後半から20世紀初頭にかけては、欧州でナショナリズムが高揚した時代であったが、19世紀後半に活躍したポーランドの画家ヤン・マテイコも(*4)、そうした時代の子として、歴史的事件を題材にした作品を数多く残している。なかでも、1410年の「グルンヴァルトの戦い」の勝利を題材にした大作「タンネンベルクの戦い」(横9.87m、縦4.26m)は有名で、祖国を喪失したポーランド人の心に強く訴えるものがあった。
     そこで、第2次世界大戦でポーランドを占領したドイツ軍は、ポーランド人の民族意識を高揚させる愛国的なヤン・マテイコの作品を見つけ出して破壊しようとした。特に、この「タンネンベルクの戦い」という大作には百万マルクの賞金を付けて摘発しようとした。しかし、愛国的なポーランドの人たちが、この絵をルブリン近郊の地中に埋めて隠したため摘発を免れた(*5)。
     1999年春、ヤン・マテイコのこの大作がリトアニアの首都ヴィルニュスにやって来て、下の城の博物館に暫く展示された。展示初日の4月14日には、ポーランド大統領クワシニウスキ臨席のもと、リトアニア大統領ヴァルダス・アダムクス、ランズベルギス国会議長など、リトアニアの要人多数が出席して盛大な式典が催された。このとき、この絵があまりに大きいので、展示には特別に広い場所が用意され、大勢の人が押しかけてきてもよいように、絵の前は大広間になっていたが、それでも、会場は連日混雑していた(*6)。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談107:ジャルギリスの戦い」参照。
    (*2)現在のポーランド北部の都市オルシュティン(Olsztyn)の南西約40kmにグルンヴァルト(Grunwald)とステンバルク(St$0119bark)という2つの村があるが、昔はドイツ騎士団の人たちによって、それぞれグリュンフェルデ(Gr$00FCnfelde)およびタンネンベルク(Tannenberg)と呼ばれていた。これら2つの村の間に僅か数km四方の平地があるが、そこが「ジャルギリスの戦い」の戦場となった。ポーランド王ヨガイラがこの戦いをラテン語で説明したときに、Gr$00FCnfelde(「緑の原野」の複数形)というドイツ語の地名を誤って“Grenenvelt”と言ったのを、のちのポーランドの年代記作者ヤン・ドゥウゴシュが更に誤って“Grunwald”と記したことから、ポーランドではこの語が定着したという。なお、リトアニア語のジャルギリス($017Dalgiris:緑)はGr$00FCnfeldeの直訳である。
    (*3)オルシュティンは、当時、ドイツ領内の都市であったが、先に説明したように、タンネンベルクからは40kmも離れているから、この戦いを「タンネンベルクの戦い」と呼ぶのは無理なのだが、当時のドイツ人の気持ちが無理を承知でそうさせたのだろう。なお、この命名者はマックス・ホフマン大佐で、この人こそが、この戦い勝利の真の功労者であるが、表向きには、第8軍司令官ヒンデンブルクや参謀長ルーデンドルフの功績とされている。
    (*4)ヤン・マテイコ(Jan Matejko:1838年生~1893年没)の時代にはポーランドという国はなく、第1次(1772年)から第3次(1795年)に及ぶポーランド分割によって、ポーランドとリトアニアの領土は分割され、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国に帰属していた。ヤン・マテイコの生まれたクラクフはオーストリアに帰属していたので、彼は幼い時、「1846年2月のクラクフ蜂起」や「1848年革命」の時のオーストリア軍によるクラクフ砲撃を経験している。こうしたことが彼の画業に大きな影響を与えた。なお、彼の作品は歴史的事実に忠実でない部分があるが、それは彼独特の歴史精神の象徴的表現で、敢えてそうしたのだと言うこともできよう。
    (*5)1945年以降、戦火とドイツ軍の破壊を免れたヤン・マテイコの作品の大多数が見つけ出され、修復されて、主にワルシャワの国立美術館に収納されている。
    (*6)この混雑の中で自分もこの大作を見た。そして、わずか10年前に、あの「人間の鎖」という奇跡の連帯を経て、独立回復を果したリトアニアの人たちの放つ明るい熱気を感じた。
    (番外1)ポーランドのピアニストで作曲家そして政治家であり外交官でもあったイグナツイ・パデレフスキは、「グルンヴァルトの戦い」の戦勝500周年に当たる1910年に、クラクフ市民に記念碑を寄贈した。このときポーランドは未だ独立回復を果していなかったから、7月15日の除幕式に続く3日間の祝祭には、彼の愛国心に感激した人々10数万人がクラクフの街を埋め尽くしたという。この記念碑は第2次世界大戦中にドイツ軍によって破壊されたが、戦後、再建された。それが現在の記念碑である。また、この年(1910年)には、2人のポーランド人画家タデウシュ・ポピエルとジグムント・ロズヴァドフスキが協力して「グルンヴァルトの戦い」という巨大な絵画(横10m×縦5m)を制作したが、第2次世界大戦中に行方不明になり、1980年代末にウクライナのリヴィウで発見された。これは現在、ウクライナのリヴィウ市の博物館にある。
    (番外2)この戦いの600周年に当たる2010年7月15日には、ポーランドで盛大な記念式典が催された。そして、リトアニア銀行は記念コインを発行したが、ベラルーシとウクライナでも記念コインが発行されている。あの時代には、ベラルーシやウクライナはリトアニアの統治下にあったから、彼らの先祖はヴィタウタス大公に従って「ジャルギリスの戦い」に参加している。従って、ベラルーシやウクライナの人たちの心にも勝者の歴史が刻まれているのだ。
    (2021年3記)
    コメントはまだありません »
    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。