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  • 谷の鶯と鶯谷/武田充司@クラス1955

     「春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど・・・」とはじまる「早春賦」は、我々世代にとっては誰でも口ずさむことのできる懐かしい歌だ。

    $00A0 しかし、どうして春を告げる鶯は「谷の鶯」なのか。先日、鈴木宏子さんの素晴らしい力作「古今和歌集の創造力」(NHKブックス:2018年12月発行)を読んでいたら、本論に入る前の枕のような序の章にその解説が出ていた。
    $00A0 これは唐代の漢詩文を踏まえた表現で、漢学の素養のない現代の我々と違って、鴎外や漱石のように漢詩をつくり、漢文を自在に書き下していた明治時代の人たちにとっては思わず口をついて出てくるフレーズらしい。いや、「漢学の素養のない我々」などと十把一絡げにして言ってはいけない。我々の級友の中にも太田宏次さんのように、漢詩を作り篆刻をやる立派な教養人もいるのだから、我が無知を顧みて恥ずべきだが。
     ところで、東京の「山の手線」の駅に「鶯谷」というのがある。最近まで西日暮里駅はなくて、上野から北に向かうと、鶯谷、日暮里、田端となって、これらの駅は武蔵野台地が尽きる崖下にある。「山の手線」ができた頃のあの辺りは東京の郊外で、春になれば鶯が鳴いていたのだろう。 しかし、それにしても、「どうして谷でもないのに鶯谷なのだろう」と不思議に思っていた。「あれは谷でなく、崖下じゃないのか」なんて理屈をこねていたのだが、鈴木宏子さんの本を読んで疑問が解けた。あれは「谷の鶯」と同じ発想ではないかと。
    $00A0 しかし、それにしても、本当にあの辺りに鶯がいたのか、と疑問が湧いてきた。そこで、ちょっとウキペディアに当たってみた。すると、こんな説明が出てきた。江戸時代に寛永寺の貫主だった公弁法親王(後西天皇の第六皇子)が、「江戸の鶯の鳴き声はなまっている」といって、わざわざ京都から鶯を持って来させてこの地に放ったことから、この地が鶯の名所となった、というのだ。
     それでもまだ疑問は残った。あれは地名ではないのか? 地図を見てもあの辺りは根岸で、鶯谷という地名は存在しない。そもそも、「谷」を「タニ」と読むのは西の方だ。関東では地名に出てくる「谷」は「ヤ」と読む。あの辺りにも「入谷」(いりや)、「下谷」(したや)、「谷中」(やなか)、「山谷」(さんや)なんて地名がある。離れた所には「四谷」(よつや)、「渋谷」(しぶや)、「碑文谷」(ひもんや)などもある。しかし、それなら「茗荷谷」(みょうがだに)はどうして、と話の腰を折られそうだが、あそこは、実際、地形的に小さな谷(たに)になっていて、昔は茗荷が栽培されていたのだ。まあ、こんな具合でこの春眠呆けみたいな話は終りです。
    (2019年2月末 記)
    5 Comments »
    1. ステキなお話ですね。
      「早春賦」の作詞者の吉丸一昌は漱石や鴎外と同時代の人ですから漢学の素養の豊かな人であったに違いないでしょう。武田さんのお話のとうり、「賦」とは漢詩を歌うこともしくは作ることを指し、「早春賦」とは「早春に賦す」が原義である、とWikipediaにありました。
      吉丸一昌の名前を私が特に記憶しているのは、出身校の静岡中学(現 静岡高校)の校歌の作詞者が吉丸一昌であることを知り、確か「早春賦」の作詞者だった筈と調べたことがあったからです。
      曲としても名曲ですよね。
      曲としての「早春賦」は、モーツアルト作曲「春へのあこがれ」K596ととてもよく似ているという説があることを最近知りました。You Tubeで、下垣真希「早春賦~春へのあこがれ」を聴いてみたら、1番が早春賦、2番が春へのあこがれ、3番が再び早春賦として下垣さんは歌っていますが、1ー3番が同じ曲のように聞こえビックリでした。

      コメント by 新井 彰 — 2019年3月1日 @ 14:06

    2. https://www.youtube.com/watch?v=ooaxMWJPBjs
      でお聴きになってみて下さい

      コメント by 新井 彰 — 2019年3月2日 @ 02:49

    3. なかなか学の深いお話、私も楽しく拝見しました。そう山手線は田端から上野まで山手台地と昔の海岸線の間の崖下を走っていますネ。科博で仕事をしていたころ、時折鶯谷駅で降りて、東博と寛永寺の間の寂しい道を歩いたものですが鶯の声を聴くことはなかったように思います。一刻茗荷谷に住んだことがありますが、竹早町(現在は茗台中前)から細くて急な幽霊坂を下りて、今は丸の内線の車庫になっている下の辺りの谷を抜け、もう一度小日向への坂を上がるという道を歩いたものでした。江戸は山手台地と海岸の間にあって本当に坂、谷の多い街ですネ。

      コメント by サイトウ — 2019年3月2日 @ 09:42

    4. 新井様、早春賦、早速聞きました。有難うございました。

      コメント by 高橋郁雄 — 2019年3月2日 @ 11:49

    5. 新井さん、サイトウさん、コメント有難うございます。
      吉丸一昌は明治6年(1873年)生まれで、漱石はそれより6つ年長の1867年生まれ、鴎外はさらに5つ上で、1862年生まれです。
       他力本願の受け売りで恥ずかしいのですが、鈴木宏子さんの本によると、
      「鶯の谷より出づる声なくば春来ることを誰か知らまし」(古今集:大江千里)の歌のように、平安時代の人たちの間では、すでに、唐代の漢詩文によって培われた「幽谷より出て早春の訪れを告げる鶯」という観念があったそうです。

      コメント by 武田充司 — 2019年3月2日 @ 13:17

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