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  • リトアニア史余談71:略奪と殺戮の十字軍志願者たち/武田充司@クラス1955

      北方の強力な異教徒の国リトアニアとの対決が本格化すると、優れた軍事力を備えたドイツ騎士団も、衆寡敵せず、戦闘員の数的劣勢に悩まされた。

      そこで、ドイツ騎士団総長カール(*1)は、アヴィニョンの教皇ヨハネス22世の支持もとりつけ、故郷ドイツからリトアニア討伐十字軍の志願者を募って兵力の増強をはかった。
      カールの呼びかけが功を奏し、多数の十字軍志願者がプロシャに集まってきた。彼らは自分たちを「ラインの巡礼者」と称し(*2)、この十字軍への参加を「軍旅」と呼んで(*3)、「神の御心に沿って辺境の野蛮な異教徒を討伐するのだ」と意気込んでいた。
      彼らの中には、その正当性は別として、純粋な信仰的情熱に駆られてこの十字軍に身を投じた貴族や騎士もいたのだが、多くは栄達の希望もなく生活も困窮している貧乏貴族の子弟などであった。中には、食い詰めた無頼漢や犯罪者も混じっていた。そうした連中は、居場所のなくなった息苦しい西欧社会からの一時的脱出行として、この「軍旅」に参加したのだった。
      騎士団総長カールもそうした事情を承知の上で十字軍志願者の募集をやっていた。したがって、彼らの多くは、不信心者の異教徒を征伐した功績によって過去の罪が許され、場合によっては騎士の称号が与えられるという触込みを信じて集まってきたのだ。
      こうして、騎士団総長カールの思惑が当たり、1317年、大規模なリトアニア討伐十字軍が編成され、勇躍リトアニア討伐の途についた。彼らはドイツ騎士団が既に支配下に置いていたニェムナス川下流地点でニェムナス川を渡河すると、北上してリトアニア西部のジェマイチヤ地方を広範囲にわたって蹂躙し(*4)、略奪と殺戮をくり返し、村落を焼き払った。そして、戦利品を掻き集め、女子供を捕虜として引き連れ、撤退して行った(*5)。
      略奪と殺戮は「ラインの巡礼者」にとって戦功であった。彼らを慰労する大宴会では、異教徒を何十人、何百人殺したという武勇伝や法螺話が得意になって語られ、人殺しの数の多さによって功績が評価された。また、略奪は彼らに収入を保証するものであった。それを目当てに多くの者が十字軍に参加していた。蛮勇をふるって大きな功績、すなわち、多数の異教徒を殺戮した者は特別扱いされ、アーサー王物語の伝説にあやかった円卓の宴席に招かれ、その栄誉が讃えられた。
      こうしたやり方はリトアニアで戦う兵力を確保する手段として極めて有効であった。集まってきた者の多くは未知の森に蛮族という動物の狩にでも行く気分でやって来るのだった(*6)。しかし、こうした非人道的な行為が、のちに、西欧キリスト教世界の心ある聖職者や知識人の間に「異教徒と雖も人間である」という人権思想の萌芽を促す結果となった(*7)。
    〔蛇足〕
    (*1)ドイツ騎士団総長カールについては「余談69:ドイツ騎士団本部のマリエンブルク移転」の蛇足(8)参照。
    (*2)彼らが「ラインの巡礼者」と自称したのは、騎士団総長カールがトリーア(Trier)の出身であったことから、この十字軍に応募した者の多くはライン川下流のラインラント(Rheinland)の人であったことによる。そして、彼らが巡礼者(pilgrim)と自称したことも彼らの気分を表している。
    (*3)「軍旅」はドイツ語のreiseの訳で、彼らはこの十字軍に参加してリトアニアに行く旅をreise(あるいは複数形でreisen)といっていた。
    (*4)このとき襲撃されたジェマイチヤの地域は、現在のリトアニアの都市名でいえば、ヴァルニャイ(Varniai)、ラセイニャイ(Raseiniai)、アリオガラ(Ariogala)などであるが、ヴァルニャイはリトアニア唯一の港湾都市クライペダの東方約75kmに位置し、そこから南東に60km余り離れたところにラセイニャイがあり、ラセイニャイから南東に30km弱行くとアリオガラがある。このように、彼らはニェムナス川の下流で北岸に渡りジェマイチヤ西部に侵入すると一旦北上し、ジェマイチヤの北西部から南東方向に移動しながらカウナス(Kaunas)に接近して行ったようである。実際、アリオガラはカウナスの北西約50kmに位置しているので、ここまで来ると、かなりリトアニアの中心部に近く、リトアニアにとっては大きな脅威となったはずだ。彼らのこの行動から推測されるのは、ニェムナス川北岸沿いの地域はリトアニアの防禦が固いので、そこを避けて、ニェムナス川のずっと北を移動してカウナスに接近しようとしたのであろう。カウナスはネリス川がニェムナス川に合流する地点にあり、当時もリトアニアの西を守る最重要拠点であった。実際、このときから45年後の1362年、カウナスの要塞はドイツ騎士団の大規模な包囲攻撃をうけて崩壊した。
    (*5)彼らは、先ず、村落を略奪し焼き払うことによって食糧の備蓄やその後の農業生産を困難にし、住民を殺戮することによって人口を減らし、それによってリトアニアの戦力を削ぐことを狙った。そのため、「ラインの巡礼者」のような「出稼ぎ戦士たち」は、略奪、放火、殺戮という刺激的なサファリ遊びを楽しんだあと、戦利品という土産をもって早々に故郷に帰って行った。彼ら出稼ぎ戦士がいなくなると、少数のドイツ騎士団の騎士たちでは広い占領地域を安定的に支配することができないので、こうした十字軍の襲来は津波のようなもので、去ったあとに荒廃した村落を残すのみであった。
    (*6)このような「出稼ぎ戦士たち」を活用したリトアニア討伐十字軍は、このあと、ほぼ1世紀にわたって幾度もくり返された。その中には一国の君主までいた。たとえば、1377年にハプスブルク家のオーストリア大公アルブレヒト3世が2000人の騎士を引き連れてリトアニア討伐十字軍に参加している。それはもう異教徒を改宗させる聖戦などではなく、「異教徒という動物」の殺戮を楽しむ刺激的なサファリ遊びのようなもので、ドイツ騎士団が時々催す恒例の行事と化していた。
    (*7)このときからほぼ1世紀後の1414年から1418年にかけて、南ドイツとスイスとの国境にある湖ボーデンゼー南岸の都市コンスタンツで「コンスタンツ公会議」が開かれたが、この宗教会議で、ポーランドのクラクフ大学の学長パヴェウ・ヴォウォドコヴィツ(Pawe$0142 W$0142odkowic)は「キリスト教徒であれ異教徒であれ、彼らの財産権は守られるべきで、罪のない隣人の財産を奪うことは自然法に反する。異教徒を改宗させるために武力を行使することは正当化できない」と論じたが、これに対してドイツ騎士団は、13世紀の著名な教会法学者ホスティエンシス(Hostiensis:1200年頃生~1271年没)の思想を援用して、「教皇の世俗的事項に関する権限は非キリスト教国にも及ぶ」と反論した。このように、コンスタンツ公会議では、それまで100年に亘って続いていたドイツ騎士団のリトアニア人に対する略奪と殺戮の歴史の非人道性がキリスト教徒自身によって議論された。
    (2017年6月 記)
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