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  • リトアニア史余談67:ゲディミナス大公のキエフ攻略/武田充司@クラス1955

     ゲディミナス大公は領土の東方拡大に熱心な戦略家であった。1320年代に入ると間もなく、大軍を率いてリトアニア南方に遠征し、キエフ攻略を目指した。

    $00A0 先ず、ブク川東岸の要衝ブレスト(*1)を落すと、さらに南進してヴォリニアのウラジーミル・ヴォリンスキー(*2)を占領した。リトアニア軍の侵攻を阻もうとして戦ったガリチア・ヴォリニア公アンドレイは戦死し、弟のレフは窮地を脱してロシアのブリャンスクに亡命した(*3)。しかし、ここで冬が迫ってきたためゲディミナスは一旦兵を引いてブレストまでもどり、そこで越冬した。
     年が明けて遅い春がやって来ると、ゲディミナスはイースターの終るのを待ってキエフを目指して進撃を開始した。1323年4月、キエフの北西約160kmにあるオヴルチ(*4)を落したゲディミナスは、そこから直接キエフに向かわず、南下してキエフの西方約130kmにあるジトミル(*5)を占領した。そこで進路を東に転じたリトアニア軍はいよいよキエフに迫った。キエフの南西約23km地点のイルペニ川の河畔には、キエフ防衛の拠点ベルゴロドの砦があり(*6)、そこにはキエフとペレヤスラヴリ(*7)の連合軍が結集していた。さらに、ブリャンスクに逃れたガリチアのレフとブリャンスク公ドミートリイの軍も加わっていたが、ゲディミナスはこの大軍を撃破した。そして、レフは戦死し、ガリチア・ヴォリニアを支配していたアンドレイとレフ兄弟の時代は終った。この戦いを「イルペニ河畔の戦い」という。
    $00A0 この戦いに勝利したリトアニア軍は、その後、1ヶ月にわたってキエフを包囲したのち、ついにキエフを制圧した。そして、弟のフェドル(*8)をキエフの総督に任命してこの辺り一帯の統治を任せたゲディミナスはリトアニアに引き揚げた。
    $00A0 しかし、この頃すでに、ヴォルガ川中流地域にモンゴル人によって建国されたキプチャク汗国(*9)によるロシア諸公の間接支配、いわゆる、「タタールのくびき」が始まっていたから、この地域へのリトアニアの進出をキプチャク汗国が黙過するはずもなかった。
     リトアニア軍がキエフを制圧した翌年から翌々年にかけて、キプチャク汗国のモンゴル軍がキエフを襲撃し、自分たちの支配地域に足を踏み入れたリトアニア勢に反撃してきた。この争いについては殆ど何も伝えられていないが、結局、キエフ総督フェドルは兄であり主君であるリトアニア大公ゲディミナスに忠誠を誓うのではなく、キプチャク汗国の汗に貢税を払って、この地域の統治権を認めてもらうことを余儀なくされた(*10)。こうして、フェドルもまたキプチャク汗国の宗主権下に呻吟する「タタールのくびき」を甘受することになった。
    〔蛇足〕
    (*1)ブレスト(Brest)はリトアニアの首都ヴィルニュスの南々西約300kmに位置し、現在はベラルーシ南西端のブク(Bug)川東岸の都市で、当時、その南はヴォリニア(Volhynia)と呼ばれた地域で、さらにその南にガリチア公国が接していた。これら2つの地域は現在のウクライナ西部を構成している。ゲディミナスは1310年代半ばに一旦ブレストを占領したが、そのときにはヴォリニア勢の反撃に合って撤退した。ブレストはこの頃からリトアニアの支配下に入り、つい最近まで、ブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk=「リトアニアのブレスト」という意味)とも呼ばれていた。たとえば、第1次世界大戦末期にボリシェヴィキとドイツとの間で結ばれた「ブレスト・リトフスク条約」はここで締結された。
    (*2)ウラジーミル・ヴォリンスキー(Vladimir-Volynskii)はヴォリニアの首都で、ブレストの南々東約140kmにあり、現在はウクライナ北西部の都市である。
    (*3)アンドレイとレフの兄弟は父ユーリイがひとりで統治していたガリチアとヴォリニアを兄弟で分けずに共同統治していた。
    (*4)オヴルチ(Ovruch)はキエフの北西約160kmにあるウクライナの小都市。なお、ブレストはキエフの西北西約500kmに位置している。
    (*5)ジトミル($017Ditomir)はオヴルチの南方約120kmにあり、現在はこの地方の大都市である。
    (*6)イルペニ(Irpen’)川は南西から流れてきてキエフの北郊外でドニエプル川に合流している。ベルゴロド(Belgorod)の砦は、10世紀末にウラジーミル聖公によって建設されたのが始まりで、その後、モンゴルの侵攻によって破壊されたので、この時の砦はそれほど立派なものではなかったようだ。
    (*7)この当時は既にキエフ・ルーシが没落して久しく、ロシアは多数の小公国に分裂していた。キエフ(Kiev)もペレヤスラヴリ(Pereiaslavl’)もそうした公国のひとつであった。ペレヤスラヴリは、現在は、キエフの南東約70kmにあるドニエプル川東岸の都市ペレヤスラフ・フメリニツキー(Perejaslav-Hmel’nic’kij )で、ここの公がキエフ公国に隣接するドニエプル川以東の地域を支配していた。
    (*8)フェドル(F$00F6dor)という名はリトアニア人に相応しくないが、これは正教徒としての洗礼名である。この人の本当の名は不明。
    (*9)1240年12月にキエフはモンゴル軍の手に落ちたが、その後、東欧に侵攻したモンゴル軍は1242年春、東欧からモンゴルへ引き揚げて行った。しかし、このとき、モンゴル軍の総大将バトゥは故郷に帰らず、途中でヴォルガ川中流にとどまり、そこにキプチャク汗国(the Golden Horde)を建国した。そして、そこから強大な軍事力を背景にロシアの諸公を間接的に支配した。これが「タタールのくびき」である。キプチャク汗国を建国したバトゥは成吉思汗(ジンギス汗)の長男ジョチの息子(次男)であることから、この国を「ジョチ・ウルス」とも呼ぶ。
    (*10)当時のキプチャク汗国は、第9代汗ウズベク(在位1313年~1341年)の時代で、全盛期を迎えていた。したがって、その強大な軍事力と経済力を前にして、キエフ総督のフェドルもウズベク汗の宗主権を認め、おとなしく貢税をおさめて臣従していたものと思われる。なお、リトアニアのゲディミナス大公(在位1316年~1341年)はウズベク汗と同時代の人で、当時のロシア諸公は、西のリトアニア大公国と東のキプチャク汗国という2強に挟まれていたのだが、彼らが広大な緩衝地帯を形成していたため、この東西の2強国が直接戦うことはなかった。
    (番外)ここで紹介したゲディミナス大公のキエフ遠征については信頼できる資料が少なく、また、キエフ公の名がスタニスラフというように西スラヴ系の人(たとえばポーランド人)の名であることなど幾つかの不合理な点があり、信憑性に疑問がもたれていた。しかし、具体的細部は別として、このような歴史的事実があったことは専門家によって支持されている。
    (2017年2月 記)
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