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  • リトアニア史余談63:ヘルクス・マンタスのクルム遠征/武田充司@クラス1955

      ポーランドを南から北に貫通して流れ、バルト海に注ぐヴィスワ川の下流右岸(東岸)にヘウムノという古い都市がある。ドイツ騎士団は、ポーランドに入植した当初から、このヘウムノとその周辺地域一帯の領有を「リミニの金印勅書」によって認められていた(*1)。当時、ヘウムノはドイツ騎士団によってクルムと呼ばれ、プロシャのドイツ騎士団領の中核都市として首都の役割を担っていた(*2)。

      ドイツ騎士団の統治と植民地化に反対するプロシャ人諸部族が結束して立ち上がった「大プロシャ反乱」(*3)が始まって3年余りが過ぎた1263年も終ろうとする頃、ヘルクス・マンタスは大軍を率いてクルム遠征の途についた(*4)。
      このときまでに、プロシャ人の反乱はドイツ騎士団支配地域の北東部で成功をおさめていたから、彼らの関心がヴィスワ川下流地域のドイツ騎士団領の心臓部に向けられたのも自然の成り行きであった。しかし、反乱軍の指揮官ヘルクス・マンタスが、故郷のナタンギアを離れて、騎士団領の奥深くに位置するクルムまで遠征してきたことに、ドイツ人は大きな衝撃をうけた(*5)。
      クルムを包囲したヘルクス・マンタスの軍団は、城外の市街地を徹底的に破壊し、殺戮と略奪の限りを尽くしたが、やはり城を落すことはできなかった。最後には、荒廃したクルムの市街地に火を放ち、掻き集めた戦利品と多数の人質を連れて帰路についた。血の海と化したクルムの城外はやがて猛火に包まれ灰燼に帰した。
      城を死守して立て籠もっていたドイツ騎士団軍は、敵が引き揚げて行くのを見て、直ちに追撃の準備を整え、ヘルクス・マンタスの軍団を追った。そして、クルムから東北東に90kmほど行ったところで騎士団軍は敵を捉えた(*6)。戦いがはじまると、ヘルクス・マンタスの軍団は激しく応戦したが、やがて算を乱して逃走した。あちこちに蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく反乱軍兵士を追って騎士団軍が分散すると、ヘルクス・マンタスはすかさず兵を集めて本格的な反撃に転じた。分散した騎士団軍は各個撃破され、壊滅的な打撃を蒙った(*7)。
      この戦いで、騎士団長をはじめとして、幹部騎士の殆どを失ったプロシャのドイツ騎士団は機能不全に陥り、弱体化した。その結果、各地のプロシャ人部族がドイツ人の支配から脱する気配を見せ始めた。そして、このあと、クルムは度々プロシャ人の襲撃をうけ、いっそう荒廃したが、それらの襲撃はプロシャ人によるものばかりでなく、この機に乗じて遠征してきた北東のバルト族ヨトヴィンギア人などによるものも多かった(*8)。
    〔蛇足〕
    (*1)「リミニの金印勅書」については「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」参照。ヴィスワ(Wis$0142a)川の上流には中世ポーランドの都であったクラクフ(Krak$00F3w)があり、中流には現在のポーランドの首都ワルシャワ(Warszawa)がある。そして、バルト海に注ぐ河口には港湾都市グダンスク(Gd$00E1nsk)がある。このことからも分かるように、この川はポーランドの大動脈である。
    (*2)現在のポーランドの都市ヘウムノ(Che$0142mno)の起源となったクルム(Culm)が誕生したのは、1233年末に発せられた「クルムの憲章」によるものだが、この「クルムの憲章」とは、ドイツ諸都市が従っている「マグデブルク法」に準じた都市法で、クルムとトルンをドイツ本国の都市と同等の資格と権利を持つ都市とするために、1233年12月にドイツ騎士団総長によって発布された憲章である。これ以後、プロシャのドイツ騎士団領の諸都市はこの「クルムの憲章」に従うことになる。なお、トルン(Toru$0144)はヘウムノより少し上流のヴィスワ川右岸(北岸)にある。この2つの都市がドイツ騎士団入植当時の2大拠点であった。地図を見ればわかるように、トルンからヘウムノまでの間はヴィスワ川の「ベント」(bent:湾曲部)であり、現在ではベントの西端(中央)に発達したビドゴシュチ(Bydgoszcz)が大都市になっている。
    (*3)「大プロシャ反乱」については「余談62:大プロシャ反乱とヘルクス・マンタス」参照。
    (*4)ヘルクス・マンタスはナタンギアの出身であったから(「余談61:キリスト教徒になったヘルクス・マンタス」参照)、彼はナタンギアのプロシャ人を集めて軍団を編成し、そこららクルムに向かった。ナタンギア地方はクルムから北東に250kmほど離れている。
    (*5)モンゴルの騎馬軍団のように馬に跨って疾駆するバルト族にとって、250km程度の距離は大した問題ではなかったのだろうが、道中は全てドイツ騎士団領であり、何時、敵の待ち伏せや隠密な追尾による奇襲攻撃をうけるかもしれない危険が伴っていた。そうした危険を冒してドイツ騎士団の首都クルムを急襲したヘルクス・マンタスの軍事行動は、ドイツ人にとって晴天の霹靂ともいうべき予想外の出来事であったようだ。
    (*6)この戦いのあった場所は、クルム(現在のヘウムノ)の東北東約90kmに位置する現在のポーランドの町ルバヴァ(Lubawa)付近であった。それに因んで、ドイツ人はこの戦いを「レバウの戦い」(the Battle of L$00F6bau)と呼んでいる。なお、ルバヴァは13世紀前半に開かれた古い都市で、当時、既にクルム司教区の都市として城と教会があった。
    (*7)このとき、プロシャのドイツ騎士団の団長であるヘルムリヒ(Helmrich)と軍司令官のディートリヒ(Dietrich)が戦死したため、ドイツ騎士団は統制が乱れて大敗したといわれている。このとき戦死した幹部騎士は40人にのぼり、さらの多くの下級騎士たちが命を落した。
    (*8)ヨトヴィンギア人も好戦的なバルト族で、リトアニアとプロシャに挟まれた中間地帯に居住していたから、ドイツ騎士団が弱体化したのに乗じてプロシャに侵入し、荒しまわり、略奪行為などを働いた。こうした襲撃にはリトアニアのバルト族も加わっていたと言われている。
    (2016年10月 記)
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