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  • リトアニア史余談61:キリスト教徒になったヘルクス・マンタス/武田充司@クラス1955

      北ドイツのブラウンシュヴァイク・リューネブルク公オットーは、1240年、ドイツ騎士団に協力してプロシャのナタンギアに遠征し(*1)、人質として捕えた多数のプロシャ人を連れて帰ってきた。その多くは若者で、プロシャ人部族の長老たちの大切な世嗣も含まれていた(*2)。

      そうした人質の中に、まだ10代はじめの少年、ヘルクス・マンタスがいた。マグデブルクの修道院に入れられたヘルクス・マンタスは、そこで洗礼をうけ、ヘンリクスという洗礼名を与えられてキリスト教徒になった(*3)。
      ヘルクス・マンタスが人質としてドイツに連れて行かれた翌年、ナタンギアの人たちは、ドイツ人の支配に抗議して反乱を起したが瞬く間に鎮圧されてしまった。そして、それまで分散して居住し、広い地域の森の中を自由に動き回って生活していたナタンギア人は、数箇所に集められ、狭い地域に定住して農業を営むことを強制され、外部の部族との婚姻が禁止された(*4)。しかし、こうしたドイツ騎士団の厳重な監視下での息苦しい生活に馴染めないナタンギア人は再び反乱を起したが、これも直ぐに鎮圧された。それどころか、度重なるナタンギア人の反乱に危機感を募らせたドイツ騎士団は、1251年から52年にかけて、ドイツから大規模な十字軍を招き、徹底的なナタンギア人殲滅作戦を展開した(*5)。
      一方、10年間ほどキリスト教徒としての教育をうけたヘルクス・マンタスは、1250年代には20歳をすぎ、一人前の戦士としてドイツ騎士団の軍務に服していた。そして、1254年から55年にかけて実施されたサンビア半島制圧の十字軍活動(*6)に参加していた。そのあとも、ドイツ騎士団に従ってプロシャ人と関係の深い他のバルト諸部族と戦い、武勲をたて、勇名を轟かせていた。察するに、ヘルクス・マンタスは天性の武将で、戦略家であったらしが、それに加えて、ドイツ騎士団から西欧の軍事技術を学び、優れた武器と装備を利用することができたから、慣れ親しんだ自然環境の中で、熟知しているバルト諸部族の習慣や戦法を逆手にとり、縦横無尽の活躍ができたのだろう。
      そうしたときに、ドイツ騎士団の支部となっていた北方のリヴォニア騎士団(*7)が、リトアニア西部を居住地域とする戦闘的なバルト族の一派ジェマイチア人との戦いに敗れ、ドイツ騎士団に支援を求めてきた(*8)。そこで、ヘルクス・マンタスは援軍の一員としてジェマイチア人討伐に向かったが、1260年7月13日、「ドゥルベ湖畔の戦い」で手痛い敗北を喫し(*9)、ドイツ騎士団の忠実な一員として戦った多くのプロシャ人同胞を戦死させてしまった。このとき、辛うじて虎口を脱して生き延びたヘルクス・マンタスは、人生の大きな転機に立っていた。
    〔蛇足〕
    (*1)ブラウンシュヴァイクとリューネブルクは、ともに北ドイツの都市であるが、この2つの都市を含む北ドイツの一角を占めるこの名の公国は、1235年に認められたばかりで、オットーはその初代の公であった。したがって、彼は公国の基礎を固め、バルト海岸沿いに支配地域を拡大しようとしていた。また、北ドイツの人たちは、遠方のエルサレム奪還を目指す十字軍活動よりも、実利のある北東のバルト族征服活動、即ち、「北の十字軍」に関心が強かった。こうしたことから、1240年のオットーの遠征が実施されたようである。オットーの父はハンザ同盟の中心都市リューベックを建設したヴェルフェン家のハインリヒ獅子公の末子ヴィルヘルムで、母はデンマーク王ヴァルデマー1世の末娘ヘレナである。このときオットー公が遠征したナタンギア(Natangia)とは、ポーランド北東部のサンビア半島に近い、プレゴリャ川以南の地域で、西バルト族のプロシャ人部族の一派ナタンギア人の居住地域である。当時、ナタンギア人は未だドイツ騎士団に征服されていなかったが、ドイツ騎士団は彼らの居住地域の南西端に砦を築いて征服の機会を窺っていた。その砦は、現在のポーランドとロシア領カリーニングラード州との国境にあるロシアの町マモノホ(Mamonovo)付近にあり、ドイツ人はその地をバルガ(Balga)と呼んでいた。オットーは、ドイツ騎士団とともに、このバルガを拠点にしてナタンギアを征服した。
    (*2)人質として部族の長老、すなわち、リーダー格の人物、あるいは、その息子(後継者)を確保する手法は当時広く行われていた。消耗品的な兵隊や奴隷として使う捕虜と違って、リーダー格の人物を人質としてとる場合は、交換条件として金品を要求することができる上、統率者を失った相手が無力化するという効果がった。また、長老の世嗣を人質にとれば、相手が反撃を躊躇するという直接の効果のほかに、長期的戦略として、若い人質を教育してキリスト教文明の優越性を理解させ、敵対する相手(異民族)を服従させる尖兵として使うことができた。
    (*3)ヘンリクス(Henricus)という洗礼名が訛ってヘルクス(Herkus)となったから、ヘルクス・マンタスと呼ばれるようになったという説がある。
    (*4)ナタンギア人が農業に従事させられたのは、ドイツ騎士団が自給自足するために必要な食糧生産を担う農奴としてであった。また、外部の部族との婚姻は、バルト諸部族の生存と互いの繁栄をはかる基本的なメカニズムで、これを禁止されると、部族の衰退を招く恐れがあった。
    (*5)このナタンギア人征服が、1254年から55年にかけてのドイツ騎士団のサンビア征服とケーニヒスベルク建設の前段階をなしている。「余談60:ケーニヒスベルク」参照。
    (*6)「余談60:ケーニヒスベルク」参照。
    (*7)リヴォニア騎士団は、リヴォニア(現在のラトヴィア)に入植して布教活動を展開したアルベルト司教が創設した帯剣騎士団が、のちに、ドイツ騎士団に併合されて名称を変えたものである。「余談44:リガのアルベルト」および「余談51:サウレの戦い」参照。
    (*8)1259年夏、リヴォニア騎士団は、現在のリトアニアとラトヴィアとの国境に位置するリトアニア西部の都市スクオダス(Suodas)付近でジェマイチア人と戦って破れ、多大の損害を蒙った。このときには、リトアニアは既にミンダウガス王によって統一されていたが、1253年の建国から日も浅く、ジェマイチ人には不満が鬱積していた。「余談17:ミンダウガスの戴冠」参照。
    (*9)ドゥルベ湖(Durbes ez.)は現在のラトヴィアの南西部、バルト海に面する都市リエパヤの東北東20数kmに位置する小さな湖である。先の「スクオダスの戦い」の戦場よりも北方にあるので、この当時、ジェマイチア人が積極的に北方のリヴォニア騎士団支配地域に攻撃を仕掛けていたことが分かる。なお、リエパヤ(Liepaja)は、日露戦争時にバルチック艦隊が出撃した軍港都市である。
    (2016年8月 記)
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