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  • リトアニア史余談54:リトアニアという名の由来/武田充司@クラス1955

     リトアニアという呼び方は英語の“Lithuania”という語の発音を仮名書きしたもので、これは日本を「ジャパン」と呼ぶようなものである。リトアニア人なら「リエトゥヴァ」(Lietuva)と言うことになる。正式の国名としては「リエトゥヴォス・レスプブリカ」(Lietuvos Respublika)、すなわち、リトアニア共和国である。

     ところで、このリエトゥヴァという名はどこから来たのだろうか。その由来については幾つかの異なった説明があるが、多くの歴史家や言語学者は、リトアニアの首都ヴィルニュスを貫いて流れるネリス川(*1)の小さな支流リエタウカ川(*2)に由来するという説を支持しているようだ。
     このリエタウカ(Lietauka)川の昔の名はリエタヴァ(Lietava)川で、これが本来のリトアニア語の名であったが、途中でスラヴ語の影響をうけ、リエタウカ川と呼ばれるようになったという(*3)。このリエタヴァ(Lietava)川流域は低地地帯で雨が降るとよく氾濫して周囲を水浸しにしたため、この川の名はリトアニア語の「溢れる」を意味する動詞リエティス(lietis)、あるいは、リエティ(lieti)に由来している(*4)。そして、リエトヴァ(Lietuva)はこのリエタヴァ(Lietava)という川の名に由来しているというのだ。
     しかし、これまで世間に広く知られていた説では、リエトゥヴァは「雨」というリトアニア語「リエトゥス」(lietus)に由来しているというものであった。リトアニアは雨が多い国なので、こうした説が一般に受け入れられたのであろうが、現在では、言語学的観点から専門家はこの説を支持していない。このほかにも、現在、論争中の新説があるが(*5)、それは省いて、最後に、興味深くしかも楽しい俗説を紹介して終りにしたい。
     それは15世紀後半にポーランドの首都クラクフの大学(*6)に留学していたリトアニア人大学生(*7)によって広められた話であると言われている。その話では、紀元前49年1月にカエサルがルビコン川を渡って始まった「ローマの内戦」で、カエサルと争った元老院派のグナエウス・ポンペイウス・マグヌスが紀元前48年8月の「ファルサルスの戦い」でカエサルに敗れ、そのあと、彼に従う者とともにローマを脱出して遠隔の地リトアニアに移り住んだという。そして、その地で彼らイタリア人は「リタリ」(Litali)と呼ばれたが(*8)、これが訛ってリトゥアニ(Lituani)となったのがリエトゥヴァ(Lietuva)の語源だというのだ。しかし、史実としては、グナエウス・ポンペイウス・マグヌスは「ファルサルスの戦い」で敗れたあと、エジプトに逃れて再起をはかろうとしたが、エジプトに上陸しようとしたときに刺客によって暗殺されているから、この話はリトアニア人のイタリアへの憧れから生まれた虚構(フィクション)といえよう(*9)。
    〔蛇足〕
    (*1)ネリス(Neris)川はヴィルニュスの北東方向から流れてきてヴィルニュスを貫流し、市の南西郊外に達したところで北西に向きを変え、そこから約75km北西に位置する工業都市ヨナヴァ(Jonava)に達するが、ここで再び向きを南西に変え、30kmほど流れてリトアニア中部の大都市カウナス(Kaunas)の旧市街の西端でニェムナス(Nemunas)川に合流している。
    (*2)リエタウカ(Lietauka)川はネリス川がヨナヴァに達する10kmほど手前(上流)でネリス川に合流しているが、ほとんどの地図に載っていないような全長11kmほどの小さな川である。
    (*3)17世紀後半にロシアで起ったニコンの正教改革のあと、これに従わない人々、いわゆる、古儀式派に対する弾圧がひどくなったため、17世紀末に多くの古儀式派のロシア人正教徒がロシアを離れて各地に移住した。このとき、リエタヴァ(Lietava)川沿いの地域にも古儀式派のロシア人がやって来て定住したという。そして、彼らがリエタヴァ(Lietava)をスラヴ語的に訛ってリタフカ(Litavka)と呼んだことから、それが後にこの地域のリトアニア人に影響してリエタウカ(Lietauka)となったと説明されている。なお、スラヴ語ではリトアニア語の二重母音「ie」が「i」で置き換えられる。
    (*4)“lietis”〔リエティス〕と“lieti”〔リエティ〕という2つの動詞は類義語だが別の語で、前者は英語のflowやpourに対応し、後者はpourやspillに対応する動詞(の原形)である。
    (*5)最近、レイチャイ(leiciai)という語からリエトゥヴァ(Lietuva)という名が生まれたのではないかという説が現れたが、言語学的な観点から専門家の反論があり、それに対する再反論が出るなど論争が続いているようだ。このレイチャイ(leiciai)というリトアニア語はレイティス(leitis)の複数形で、リトアニア大公国時代のリトアニア大公に直属する、いわゆる、譜代の武士団を指す語である。彼らレイチャイは当時のリトアニア社会の中で特有の伝統的エリート集団として、ひとつの社会階級を構成していたという。
    (*6)この大学とは、ポーランド王カジミエシュ3世(在位1333年~1370年)によって1364年に創設されたクラクフ大学のことで、ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カール4世によって1348年にボヘミアの首都プラハに設立されたカレル大学に次ぐ、中東欧圏における2番目に古い大学であり、スラヴ人によって設立された大学としては最古のものである。その後、この大学は一旦衰退して閉鎖されるが、リトアニア大公ヨガイラ(Jogaila)がポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(Wladyslaw Ⅱ Jagiello:在位1386年~1434年)となった時代に、ヨガイラの后ヤドヴィガ(Jadwiga:1399年没)の尽力によって再建された。そして、19世紀になって、この大学はヤギェウォ大学(Universytet Jagiellonski:「ヨガイラ大学」という意味)と呼ばれるようになり、現在でも、ワルシャワ大学と並ぶポーランドの最高学府である。
    (*7)この当時、リトアニアの高等教育システムは整っていなかったので、貴族の子弟などはクラクフの大学に留学することが流行していた。
    (*8)「リタリ」(Litali)とは「イタリア人」と言う意味で、当時のリトアニア人がローマから移り住んできたこれらの人々を「イタリア人」と呼んだということだ。
    (*9)この話は15世紀のポーランドの歴史家(年代記著述者)ヤン・ドゥウゴシュ(Jan Dlugosz)によって紹介されて広まったが、リトアニア人の心の中には、自分たちの先祖はイタリアからやって来たのだという空想的伝説を心地よく信じたい気分があるようだ。実際、リトアニアにはイタリアから招いた建築家に造らせた幾つもの美しい教会や貴族の館が残っていて大切な観光資源になっている。また、リトアニア人は「北のイタリア人」と呼ばれるという話を聞いたことがあるが、これは多少誇張だとは思うが、総じて彼らは陽気で明るい。
    (2016年1月 記)
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