リトアニア史余談51:サウレの戦い/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2015年度, class1955, 消息)
武力に訴えてでもリヴォニアにおける布教を成功させようとしたリガのアルベルト司教配下の武力集団である帯剣騎士団は、布教の進展とともに次第に司教の統制を嫌って独自の道を歩み出し、司教と対立するようになっていた(*1)
1229年にアルベルト司教が亡くなると、司教との長年の確執から解放された帯剣騎士団は傲慢となり、規律は乱れ、益々勝手な行動をとるようになった。彼らの横暴とキリスト教徒にあるまじき不道徳な行為はやがてローマ教皇の知るところとなり、帯剣騎士団の廃止解体の動きが俄かに表面化してきた(*2)。こうした状況を憂慮した騎士団総長フォルキンは騎士団の将来を考えて、当時、プロシャに進出していたドイツ騎士団(*3)との合併を画策した。しかし、相手の弱みに付け込んだドイツ騎士団は狡猾に立ち回った(*4)。
窮地に立たされた帯剣騎士団は一計を案じ、危険な異教徒リトアニア人討伐の十字軍を起すべしと教皇グレゴリウス9世に進言した(*5)。これが功を奏し、1236年2月19日、教皇はリトアニア討伐十字軍を布告した。この布告によって、欧州各地から多くの騎士たちがリヴォニアに集まってきた。中には、十字軍に参加すればそれまでの罪が許されるというので、安直な贖罪を願った無頼の徒も混じっていた。そこにリヴォニアやエストニアの各地から召集された原住民兵士も加わり、俄か造りの騒々しい大軍団が出現した。もうこうなると、血気にはやる群集のような軍団を長く留めて置くこともできなくなり、帯剣騎士団総長フォルキンは、同年9月、帯剣騎士団の主力を先頭に、大軍団を率いてリトアニア北西部のジェマイチア地方に向って発進した(*6)。
一方、敵の動きを察知したジェマイチアの人々は、事前に部落を放棄して何処ともなく姿をくらました。その結果、十字軍は大した抵抗もうけずに大きな戦果を挙げることができたが、間もなく、リトアニア側が兵力を集めて反撃の準備をしていることを知った。騎士団総長フォルキンは敵の大軍が反撃してくる前に撤退しようと急いだが、川の向こうに屈強なジェマイチア人兵士の一団が既に待ち伏せしていることに気づいた。評議の結果、そこに留まって一夜を明かすことにした。翌朝(1236年9月22日の朝)目が覚めてみると、彼らはジェマイチア人の大軍に取り囲まれていた(*7)。重い鎧兜で身を固め馬に乗って戦う騎士たちの動きは鈍重で、軽装備で敏捷に動き回るジェマイチア人によって、たちまち追い詰められ、地上に引きずり降ろされ、泥まみれになって次々に惨殺された。
騎士団総長フォルキンをはじめとして多くの幹部騎士を失って大敗した帯剣騎士団は、その痛手から再起することができず、この翌年、ドイツ騎士団に併合された(*8)。この戦いは「サウレの戦い」と呼ばれ、リトアニア史の開幕を飾る輝かしい記念碑的事件である(*9)。
〔蛇足〕
(1)「余談:神権国家の出現とリヴォニアの分割」参照。
(2)帯剣騎士団は自分たちの支配下にある原住民を容赦なく搾取したため、かえって布教の妨げにさえなっていたから、リガの聖職者たちの間でも嫌われていた。ローマ教皇グレゴリウス9世(在位1227年~1241年)は教皇特使を派遣して帯剣騎士団の実態を調査しようとしたが、騎士団側はこの教皇特使を捕らえて幽閉してしまった。これは明らかに教皇に対する反逆で、このことが帯剣騎士団の廃止解体論に火をつけた。
(3)ドイツ騎士団の簡単な紹介は「余談:ピレナイ砦の悲劇」の蛇足(1)に記したので参照されたい。
(4)入植して間もない当時のドイツ騎士団はバルト族との戦いにも不慣れであったから、経験豊富な帯剣騎士団の併合は望むところであった。そこで、調査団を派遣して帯剣騎士団の実態を調査したが、彼らの規律の乱れや腐敗ぶりが目についたため、併合する価値なしと判断して断ったという。しかし、これは表向きの理由で、ドイツ騎士団は帯剣騎士団が遠からず自壊するだろうと読み、そうなるまで待てば、自動的に彼らの領地を含めて全てが労せずして手に入ると考えていた。
(5)グレゴリウス9世は十字軍活動に熱心な教皇で、第5回十字軍(教皇ホノリウス3世が宣布)に非協力だった異色の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門して屈服させ、第6回十字軍を起させた。また、このあと、モンゴル軍の東欧侵攻の最中に、東西教会の統一を目指して「北の十字軍」と呼ばれるノヴゴロド討伐十字軍を宣布してスウェーデン王エーリク11世を鼓舞し、史上有名な「ネヴァ川の戦い」でアレクサンドル・ネフスキーに名を成さしめている。
(6)帯剣騎士団総長フォルキン(Volquin)は欧州各地から集まった騎士たちの血気にはやる無責任な意向に押されて、準備不足のまま出陣したのだという。そのため、手強いリトアニアのバルト族の中心部を避け、西部のジェマイチアに侵攻したのではないかと言われている。
(7)このとき、バルト族との戦いに豊富な経験をもつ騎士団総長フォルキンは、敵が結集する前に即座に撤退すること、撤退に当たっては、湿地地帯の足場の悪さを考えて、騎乗せずに徒歩で戦いながら馬を温存し、敵を振り切ったあと馬で迅速に逃げ帰ることを提案したが、西欧から集まった無知な騎士たちは、そうした撤退を騎士の不名誉と考え、重装備で騎乗して敵と正面切って戦うことを主張して譲らなかった。その結果、フォルキンはやむなく一夜をそこで過ごすことに同意したという。したがって、フォルキンにとっては、翌朝、ジェマイチアのヴィキンタス(Vykintas)公率いる大軍が彼らを包囲している状況を見ても、それは想定外のことではなかったようだ。
(8)これはドイツ騎士団側が想定したシナリオ通りの結末で、帯剣騎士団との併合交渉では、絶対的な優位に立ったドイツ騎士団側は何の譲歩もせず、交渉は暗礁に乗り上げた。そこで、併合問題は教皇グレゴリウス9世の裁定に委ねられたのだが、教皇は、帯剣騎士団に有無を言わせず、ドイツ騎士団による無条件併合を命じた。このとき以後、帯剣騎士団は「リヴォニア騎士団」と名を変え、ドイツ騎士団のリヴォニア支部的存在となったが、騎士団長選出など、ある程度の自治は認められた。なお、このとき、教皇は、帯剣騎士団が占領していたエストニアの領地を全てデンマーク王に返還することを命じている。
(9)「サウレの戦い」はリトアニア語で“Saules musis”(サウレス・ムーシィス)というが、“Saule”(サウレ)は「太陽」であるから、英語では、この戦いは“the Battle of the Sun”と訳されている。しかし、この戦いのあった正確な場所は不明で、現在のリトアニア中北部の都市シャウレイ(Siauliai)の近くであっただろうと言われている。現在、都市としてのシャウレイの起源は1236年であるとされているので、これは明らかに「サウレの戦い」を意識したものだ。この戦いから750年経った1986年、当時のリトアニア共産党はこの戦いの勝利を記念してシャウレイに大きな日時計を造った。
(2015年10月 記)
(1)「余談:神権国家の出現とリヴォニアの分割」参照。
(2)帯剣騎士団は自分たちの支配下にある原住民を容赦なく搾取したため、かえって布教の妨げにさえなっていたから、リガの聖職者たちの間でも嫌われていた。ローマ教皇グレゴリウス9世(在位1227年~1241年)は教皇特使を派遣して帯剣騎士団の実態を調査しようとしたが、騎士団側はこの教皇特使を捕らえて幽閉してしまった。これは明らかに教皇に対する反逆で、このことが帯剣騎士団の廃止解体論に火をつけた。
(3)ドイツ騎士団の簡単な紹介は「余談:ピレナイ砦の悲劇」の蛇足(1)に記したので参照されたい。
(4)入植して間もない当時のドイツ騎士団はバルト族との戦いにも不慣れであったから、経験豊富な帯剣騎士団の併合は望むところであった。そこで、調査団を派遣して帯剣騎士団の実態を調査したが、彼らの規律の乱れや腐敗ぶりが目についたため、併合する価値なしと判断して断ったという。しかし、これは表向きの理由で、ドイツ騎士団は帯剣騎士団が遠からず自壊するだろうと読み、そうなるまで待てば、自動的に彼らの領地を含めて全てが労せずして手に入ると考えていた。
(5)グレゴリウス9世は十字軍活動に熱心な教皇で、第5回十字軍(教皇ホノリウス3世が宣布)に非協力だった異色の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門して屈服させ、第6回十字軍を起させた。また、このあと、モンゴル軍の東欧侵攻の最中に、東西教会の統一を目指して「北の十字軍」と呼ばれるノヴゴロド討伐十字軍を宣布してスウェーデン王エーリク11世を鼓舞し、史上有名な「ネヴァ川の戦い」でアレクサンドル・ネフスキーに名を成さしめている。
(6)帯剣騎士団総長フォルキン(Volquin)は欧州各地から集まった騎士たちの血気にはやる無責任な意向に押されて、準備不足のまま出陣したのだという。そのため、手強いリトアニアのバルト族の中心部を避け、西部のジェマイチアに侵攻したのではないかと言われている。
(7)このとき、バルト族との戦いに豊富な経験をもつ騎士団総長フォルキンは、敵が結集する前に即座に撤退すること、撤退に当たっては、湿地地帯の足場の悪さを考えて、騎乗せずに徒歩で戦いながら馬を温存し、敵を振り切ったあと馬で迅速に逃げ帰ることを提案したが、西欧から集まった無知な騎士たちは、そうした撤退を騎士の不名誉と考え、重装備で騎乗して敵と正面切って戦うことを主張して譲らなかった。その結果、フォルキンはやむなく一夜をそこで過ごすことに同意したという。したがって、フォルキンにとっては、翌朝、ジェマイチアのヴィキンタス(Vykintas)公率いる大軍が彼らを包囲している状況を見ても、それは想定外のことではなかったようだ。
(8)これはドイツ騎士団側が想定したシナリオ通りの結末で、帯剣騎士団との併合交渉では、絶対的な優位に立ったドイツ騎士団側は何の譲歩もせず、交渉は暗礁に乗り上げた。そこで、併合問題は教皇グレゴリウス9世の裁定に委ねられたのだが、教皇は、帯剣騎士団に有無を言わせず、ドイツ騎士団による無条件併合を命じた。このとき以後、帯剣騎士団は「リヴォニア騎士団」と名を変え、ドイツ騎士団のリヴォニア支部的存在となったが、騎士団長選出など、ある程度の自治は認められた。なお、このとき、教皇は、帯剣騎士団が占領していたエストニアの領地を全てデンマーク王に返還することを命じている。
(9)「サウレの戦い」はリトアニア語で“Saules musis”(サウレス・ムーシィス)というが、“Saule”(サウレ)は「太陽」であるから、英語では、この戦いは“the Battle of the Sun”と訳されている。しかし、この戦いのあった正確な場所は不明で、現在のリトアニア中北部の都市シャウレイ(Siauliai)の近くであっただろうと言われている。現在、都市としてのシャウレイの起源は1236年であるとされているので、これは明らかに「サウレの戦い」を意識したものだ。この戦いから750年経った1986年、当時のリトアニア共産党はこの戦いの勝利を記念してシャウレイに大きな日時計を造った。
(2015年10月 記)
2015年10月16日 記>級会消息