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  • リトアニア史余談50:ヴォリニアとの平和条約 / 武田充司@クラス1955

     ウクライナの北西部、ポーランドとの国境近くにウラジーミル・ヴォルインスキという都市があるが、この辺りはヴォリニア(*1)と呼ばれ、980年代にキエフのウラジーミル聖公がそれまでポーランドの支配下にあったこの地方を併合した。

     しかし、12世紀に入ってキエフ・ルーシが衰退すると、次第にキエフの支配下から脱して独立色を強め(*2)、12世紀後半にはロマン・ムスチスラヴィチ(*3)がヴォリニアを統一して独立国とし、さらに1199年にはヴォリニアの南東に隣接するガリチア(*4)も併合して、ガリチア・ヴォリニア公国を打ち立てた。
     この間にも、野心家のロマン・ムスチスラヴィチは北方への領土拡大を目指して、1196年、ポーランド北東部に居住していた強力なバルト族の一派ヨトヴィンギア人を襲撃した(*5)。ヨトヴィンギア人はリトアニアのバルト族にとって南の隣人であったから、この事件はリトアニアのバルト族に大きな衝撃を与えた。しかし、1205年、ロマンはポーランド領内を移動中に奇襲に遭って落命した。その結果、ロマンの築いた未熟なガリチア・ヴォリニア公国を継承しようとするロマンの2人の遺児ダニーロとヴァシルコをめぐって内紛が起った(*6)。
     この内紛の最中の1219年、ダニーロとヴァシルコの兄弟とその母アンナは、リトアニアのバルト族と平和条約を結んだ。彼らは内紛に勝利するためにこの条約を利用しようとしたのだが(*7)、リトアニア側にもこの平和条約を歓迎する理由があった。リトアニアのバルト族は1210年代に入って北方のリヴォニアで帯剣騎士団を中核とするドイツ人との戦いに連敗し、苦境に立たされていたから(*8)、南方のヴォリニアとは争いたくなかったのだ。こうして両者の思惑が一致した。
     ヴォリニア側はダニーロとヴァシルコの兄弟と彼らの母アンナが代表者としてこの平和条約に署名したが、リトアニア側は21人もの多数の代表者が条約の署名者として名を連ねた。彼らは、アウクシュタイティア、デルトゥヴァ、および、ジェマイチアの3地域のバルト族を代表する人たちであった(*9)。筆頭者のジヴィンブタス、それに続くダウヨタスとその弟のヴィリガイラ、そして、ダウスプランガスとその弟のミンダウガスの5名が重要な実力者であったが、この5人はいずれもアウクシュタイティア地方の南東部、すなわち、ネリス川流域かそれに接する地域を支配するバルト族の代表者であった(*10)。
     このように広範囲のリトアニアのバルト諸部族が大同団結してヴォリニアとの平和条約締結に臨んだことは、この地域のバルト族による統一国家の出現が間近に迫っていることを予感させるもので、まさに、これは建国前夜の画期的出来事であった。
    〔蛇足〕
    (1)ヴォリニア(Volhynia:または、ヴォルィーニ)の中心都市はキエフのウラジーミル聖公(在位978年~1015年)が建設したウラジーミル(現在のウラジーミル・ヴォルインスキ)で、ルーツク(Lutsk)もこれに並ぶ重要都市である。ヴォリニアの東端はキエフの西方150kmあたりで、西端はポーランドのルブリン(Lublin)あたりまでで、北はベラルーシのブレスト(Brest)、南はクレメネツ(Kremenets)あたりまでである。
    (2)キエフ・ルーシはウラジーミル・モノマフ(在位1113年~1125年)の時代に一時的に立ち直るが、彼の没後、本格的に衰退し、小国に分裂する。このとき、ヴォリニアの南隣のガリチア(Galicia:またはハールィチ)が、先ず、キエフの支配下から脱して独立した公国となって領土を拡大する。一方、12世紀後半に、ヴォリニアのムスチスラフ(Mstyslav)という人物が衰弱したキエフを支配しようとして立ち上がり、北方のスーズダリと争う。このように、キエフの支配下にあったガリチアとヴォリニアの独立時期に差があるのは、この2つの地域の特色の違いとキエフとの物理的政治的距離の差に起因している。
    (3)ロマン・ムスチスラヴィチ(Roman Mstyslavych:在位1173年~1205年)は蛇足(2)で述べたヴォリニアのムスチスラフ(Mstyslav)の息子である。
    (4)ガリチアは蛇足(2)で述べたようにヴォリニアの南隣の地域で、昔からカルパチアの岩塩産地として知られ、東西の交易路上にあって繁栄した。現在の中心都市はリヴォフである。キエフのウラジーミル聖公は、それまでの中心都市プシェミシル(Przemysl:現在はポーランドの都市)に代わって、岩塩産地の近くにハリチ(Halych)という町を建設し、そこを政治の中心都市としたが、この歴史的都市ハリチは現存しない。いずれにせよ、ヴォリニアに比べ、ガリチアは豊かで商人が中心になって繁栄したため、キエフからの独立の気運も早くから醸成された。
    (5)このとき、ヨトヴィンギア人の居住地域は殆どロマンの軍隊に占領され、リトアニアの南端までヴォリニアの脅威が迫った。彼はキエフをも併合してこの地域に大国を建設しようとした。
    (6)このとき、ダニーロ(Danylo)とヴァシルコ(Vasylko)はそれぞれまだ4歳と2歳であったから、ガリチアの貴族たちはこの機会にこの2人の遺児と彼らの母アンナを追放した。ここから混乱が始まった。
    (7)実際、この2年後の1221年にダニーロはヴォリニアの支配を確立した。しかし、ガリチアの併合は1238年になってようやく実現している。
    (8)「余談:戦うリトアニアのバルト族」参照。
    (9)現在のリトアニアでは、アウクシュタイティア(Aukstaitija)地方は非常に広いが、ここで言うアウクシュタイティアはもう少し狭い、カウナス(Kaunas)とヴィルニュス(Vilnius)を結ぶ線の北側のリトアニア東部地域で、デルトゥヴァ(Deltuva)は、このアウクシュタイティア西端の比較的狭い地域である。「余談:戦うリトアニアのバルト族」の蛇足(11)参照。また、ジェマイチアはさらにデルトゥヴァの西側の地域である。これら3つの地域を合わせれば、現在のリトアニアの中核部分が形成されるから、当時としては、まさに、「オール・リトアニア」として結束した代表団であった。
    (10)この5人を除く残りの16人の代表団の内訳は、9人がアウクシュタイティア北部地域の代表で、4人がデルトゥヴァ、2人がジェマイチアの代表であった。残る1名は何処の豪族であったか不明だが、その名からロシア人であった可能性もある。ここで注目すべきは、後にリトアニアを統一して初代の君主となって戴冠したミンダウガス(Mindaugas)が、筆頭者を含む最初の5人の重要署名者の最後に名を連ねていることである。
    (番外)ここで触れたようなキエフ・ルーシ時代のガリチアとヴォリニアの歴史を、それ以後の時代にまで下って知ることは、現代のウクライナの状況(西ウクライナの親欧米傾向と東ウクライナの親ロシア傾向による混迷)を理解する一助になるだろう。
    (2015年9月末 記)
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