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  • リトアニア史余談48:ゲルツィカのフセヴォロド公/武田充司@クラス1955

     13世紀初め、現在のラトヴィアの首都リガを拠点にドイツ人が植民地を拡大していた頃、ラトヴィア東部のバルト族の居住地域にはロシア人の公国があった。

     キエフ・ルーシが栄えていた時代にルーシの人たちはダウガワ川上流のポロツク(*1)を中心にして現在のベラルーシ北部からラトヴィア東部を支配していたが、フセヴォロド公を戴くゲルツィカ公国(*2)はそうしたポロツクを頂点とするルーシの支配地域の西の辺境に位置するダウガワ川北岸の小公国であった。
     フセヴォロド公が城を構えていたゲルツィカはポロツクからダウガワ川を200kmほど下ったところにあり、フセヴォロド公はここを拠点にダウガワ川の北側一帯を所領としていた。しかし、リガから見れば、ゲルツィカはダウガワ川を180kmほど遡った地点にあったから、東方へ支配地域を拡大しようとしていたリガのドイツ人がフセヴォロド公と衝突するのは避けられない情勢だった。実際、ドイツ人は1207年にゲルツィカの下流約80kmにあるダウガワ川北岸のコクネセを征服していた(*3)。
     フセヴォロド公の妃はリトアニアのバルト族の長老の娘であったが(*4)、そうした関係もあってか、リトアニアのバルト族はフセヴォロド公の協力を得てしばしばダウガワ川を渡ってリヴォニアに侵攻し、各地を荒しまわり、リガのドイツ人の脅威となっていた(*5)。そこで、1209年の秋、リガのアルベルト司教は、配下の帯剣騎士団を中核にして、キリスト教徒となったフィン・ウゴル系のリーヴ人やバルト族のレット人などの原住民を総動員した大軍団を組織し、ゲルツィカのフセヴォロド公討伐に向かった。このアルベルト司教の大軍が近づいて来るのを見たゲルツィカ城外のロシア人は、突然の襲撃に狼狽し、あわてて城内に逃げ込んだが、城門を閉じる間もなく、あとを追ってきたドイツ人兵士が城内に乱入し、瞬く間にゲルツィカの城を占領してしまった。
     フセヴォロド公は少数の家来とともに船でダウガワ川を渡り対岸(南岸)に逃れたが、フセヴォロド公の妃と娘たちは逃げ遅れてドイツ人に捕らえられた。ゲルツィカの城を占領したキリスト教徒たちは、城下町を荒しまわり、あらゆるものを略奪したあと、城に火を放って引き揚げて行った。辛くも生き延びたフセヴォロド公はダウガワ川の対岸から炎上するゲルツィカの城を見て嘆き悲しんだという。その後、アルベルト司教はフセヴォロド公をリガに呼び出し、人質となっていた彼の妃と娘や家臣たちを返すことを条件にフセヴォロド公に服従を迫った。フセヴォロド公はこれを受け入れ、リガのアルベルト司教に忠誠を誓って臣従した(*6)。しかし、いったん事が治まるとフセヴォロド公は再びリトアニア人と協力してリガのドイツ人に執拗な反抗を繰り返し、決して服従しなかった(*7)。
    〔蛇足〕
    (*1)ポロツク(Polotsk)は、バルト海からドニエプル川経由で黒海に出てコンスタンチノープルやギリシア、ローマといったヨーロッパ文明の中心地に至る交易路、いわゆる、「ヴァリャーギからギリシアへの道」の中継基地として重要な位置にあり、10世紀後半にはヴァリャーグ人(スウェーデン・ヴァイキング)が支配していたが、キエフ・ルーシのウラジーミル聖公(在位978年~1015年)に征服されて以来、キエフ・ルーシの支配下にあった。「ヴァリャーギからギリシアへの道」は、リガ湾からダウガワ川を遡ってポロツク、あるいは、さらに上流のヴィテブスク(Vitebsk)辺りから船を担いで陸路でオルシャ(Orsha)方面に向かい、ドニエプル川の上流に出る道と、フィンランド湾からネヴァ川を通ってラトガ湖経由でノヴゴロド(Novgorod)へ、そして、イリメニ湖からロヴァチ川を南下してポロツク方面に向い、ドニエプル川上流に出る道があった。いずれにせよ、ポロツクはこの交易路の要衝であり、ポロツクから下流のダウガワ川流域を支配することはポロツクの安全保障上重要であった。
    (*2)ゲルツィカ(Gerzika)は当時のドイツ人の呼び名で、現在ではイェルシカ(Jersika)と呼ばれている。ここを拠点にダウガワ川の北側の地域を支配していたフセヴォロド(Vsevolod)はその名からもロシア人正教徒であったと思われるが、この地域のバルト族を支配していたことからヴィスヴァルディス(Visvaldis)とバルト語的な呼ばれ方もする。
    (*3)「余談:リヴォニアのバルト族の運命」参照。
    (*4)フセヴォロド公の妃はリトアニアのデルトゥヴァ(Deltuva)を支配していたダンゲルティス(Dangerutis)の娘であったと言われている。デルトゥヴァ(Deltuva)はネリス川に北から注ぐシュヴェントイ(Sventoji)川流域地帯で、リトアニア中心部の高地地方(アウクシュタイティア:Aukstaitija)の一部で、この地域の現在の中心都市はウクメルゲ(Ukmerge)である。
    (*5)実際、1203年、フセヴォロド公はリトアニアのバルト族と協力してリガ近郊まで進撃し、入植したばかりのドイツ人を震え上がらせた。
    (*6)フセヴォロド公は正教徒であったはずで、このとき、カトリックに改宗してリガのアルベルト司教に臣従したものと思われる。これに対して、それまでフセヴォロド公が支配していた領地の一部が、アルベルト司教から改めて封土として彼に与えられた。残りの領地はアルベルト司教に召し上げられたが、それから暫く経った1211年にアルベルト司教はその一部を帯剣騎士団に割譲した。
    (*7)人質となっていた妃や娘たちを取り戻したフセヴォロド公は、狭くなった領地にもどると、アルベルト司教との約束など反故にして以前の信仰にもどり、焼け落ちた居城を再建すると、リトアニアのバルト族と連絡をとってゲルツィカの下流にあるコケンフセン(Kokenhusen:現在のコクネセ〔Koknese〕)のドイツ人の拠点を襲撃した。フセヴォロド公のこうした背信行為に激怒したコケンフセンの城代マインハルトは、1214年、兵力を結集してフセヴォロド公討伐に向かった。これを知ったフセヴォロド公はいち早くリトアニアのバルト族に使者を送り援軍を要請した。リトアニアからの援軍は急遽ダウガワ川のゲルツィカの対岸までやって来て待機した。一方、それとは知らずにゲルツィカを襲撃したコケンフセンのドイツ人騎士たちは、ゲルツィカを占領し、略奪の限りを尽くして大勝利に酔いしれていた。そのとき、対岸のリトアニア人たちが和平交渉をしたいから船を回してくれと頼んできたので、早速、船を対岸に送ったが、リトアニア人たちはこの船を利用して次々にゲルツィカに渡り、ある者は泳いで川を渡り、たちまち、リトアニア人の大軍が戦勝気分に浸っていたドイツ人の前に現れた。これに驚いたドイツ人たちは抵抗する間もなく殲滅された。このようにしてフセヴォロド公は1239年に亡くなるまで抵抗し続け、半独立的な地位を守り通したという。
    (2015年8月末 記)
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