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  • 70年前のこと/大曲恒雄@クラス1955

    ・終戦から70年となる日を迎えて、急にその頃のことを記録に留めておきたいと思うようになり、バタバタとメモ風にまとめてみた。

    ・小生は小学校(途中から国民学校に変わる)時代と、中学校の1年生の2学期までは下関市の長府で過ごした。長府は長州藩の拠点の一つだったようで(大河ドラマの「花燃ゆ」にも時々出てくるようだが、小生はドラマを殆ど見ないので自信無し)、「侍町」という町名が現在も残っている。
    小生が住んでいた頃はその侍町に“瓦屋根付きの土塀“に囲まれた豪邸(多分昔の武家屋敷)があった。
    ・昭和20年4月に豊浦中学校に入学。長府は、長州藩の伝統以外にも乃木大将の出身地であった関係もあり軍隊色(?)の強い所で、この学校では1年◯組という代わりに第1大隊第◯中隊と呼ばれていた。サーベルを腰に下げた軍人が駐在し、時々軍事教練も行われていた。
    ・幸いなことに、町は殆ど空襲の被害は受けなかった。中学校のグラウンドに焼夷弾が何発か落ちた程度で済んだのは不幸中の幸いと言えよう。
    米軍の狙いは主として関門海峡の封鎖で、ほとんど毎晩のようにB29が機雷投下に来ていたため、警戒警報、空襲警報には殆ど慣れっこになっていた。米軍の目的はほぼ達成されたようで、終戦の時には関門海峡は沈没船だらけ、殆ど船が通れないような状況になっていた。
    ・終戦の詔勅(いわゆる「玉音放送」)をどのような環境で聞いたのかは全然覚えていないが、雑音混じりの聞き取りにくいラジオ放送の中で「・・・耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」というあたりは不思議と記憶に残っている。
    終戦を境にして学校生活がどのように変わったのかについては残念ながら殆ど覚えていない。
    1件のコメント »
    1. コメントが遅くなって済みません。終戦から70年にあたって当時体験した記録を書き留めておくことは大変重要なことだと思います。大曲兄が、終戦時に下関市の調布に住んでいたことを初めて知りました。空襲も体験されたようですが、中小都市であった岡山も6月29日の空襲で焼け野が原になりました。岡山城の石垣にあった岡山一中も炎に包まれ燃え落ちるのを、旭川の河原から、妹と呆然として眺めました。昼頃焼け残った自宅に帰り、私だけ近くの弘西小学校(統廃合で現在は廃校)に行き大ショックを受けました。運動場は火葬場となり教室は重傷者で満ち溢れていました。
      今日は、天王洲の銀河劇場で終戦70周年特別舞台公演「命の行進曲」を観てきました。座席は若者、中年、年配者で満席でした。改めて終戦前後の記録が大切であると認識したので、クラスブログに昔の記憶を投稿しようと思っています。

      コメント by 大橋康隆 — 2015年8月17日 @ 21:54

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