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  • リトアニア史余談47:リヴォニアのバルト族の運命/武田充司@クラス1955

     ラトヴィアの首都リガからダウガワ川を100kmほど遡った北岸にコクネセという小さな町があるが、ドイツ人がリヴォニアに進出した13世紀初頭には、この辺り一帯はバルト族の居住地域であった(*1)。

     1207年、この辺りの部族の首領ヴェツケが大勢の部下を従えてダウガワ川を下り、リガのアルベルト司教(*2)のもとにやって来て、自分の領地と砦をアルベルト司教に寄贈するから、自分たちをリトアニアのバルト族の攻撃から守って欲しいと申し入れた(*3)。そこで、アルベルト司教はこの申し出を快くうけ入れ、その翌年、多数のドイツ人をヴェツケのもとに派遣した。
     ヴェツケの領地に到着したドイツ人たちは、早速、木造の粗末なヴェツケの砦を壊し、そこに頑丈な石造りの城を構築しはじめた(*4)。工事現場のドイツ人たちは、剣を外して甲冑を脱ぎ捨て、それらを仕事の邪魔にならない所に集めて置いていた。ところが、暫くすると首領ヴェツケが屈強の部下を従えて現場にやって来て、まとめて置いてあったドイツ人の甲冑や武器を没収し、抵抗する術を失ったドイツ人を皆殺しにした。
     このあと直ぐ、ヴェツケはダウガワ川上流の正教徒の国ポロツクに使者を送り、手薄になったリガに奇襲攻撃をかける共同作戦を提案し、ダウガワ川南岸地域のバルト族の一派セリア人にも呼びかけて蜂起した。この動きを知ったリガのアルベルト司教は、リヴォニアのドイツ人を総動員し、帯剣騎士団を中核とする大軍を編成すると、ダウガワ川を遡ってヴェツケの本拠地コクネセに攻め上がった。ヴェツケの提案に乗ってダウガワ川を下って来たポロツク公はこの奇襲に驚き、軍をまとめて逃げ帰ってしまった。頼みとするポロツク公の支援を失った首領ヴェツケとバルト族の集団は強力なドイツ人の軍団に蹴散らされてしまった。勝ち誇ったドイツ人たちは、焼け落ちたヴェツケの本拠地を占領すると、周辺の森に逃げ込んだ残党を残らず探し出して皆殺しにした。辛うじて生き残った首領ヴェツケはポロツクに亡命し、2度とこの地にもどって来ることはなかった。
    このとき首領ヴェツケの蜂起に協力したバルト族の一派セリア人は、現在のラトヴィアの東南部のダウガワ川南岸地帯からリトアニアの北東部にかけて居住していたが、彼らはリトアニアのバルト族が頻繁にダウガワ川を越えてリヴォニアに侵攻し、あるいは、そこから更に北上してエストニアまで荒しまわる時の中継基地を提供していた(*5)。好戦的なリトアニアのバルト族の侵入に神経を尖らせていたリガのアルベルト司教は、このとき、セリア人がレット人の首領ヴェツケの蜂起に協力したことをよい口実に、セリア人討伐を企て、彼らの居住地域に帯剣騎士団を中核とする大軍を派遣した。抵抗しても勝ち目はないと悟ったセリア人は、1208年、降伏してキリスト教徒になることを誓った。
    〔蛇足〕
    (*1)現在のコクネセ(Koknese)は、当時、ドイツ人によってコケンフセン(Kokenhusen)と呼ばれていて、このあたりのダウガワ川北岸地域に住んでいたバルト族はレット人(Letts or Lettigalians)あるいはラトガレ人(Latgalians)と呼ばれていた。そういうことから、現在、ラトヴィア人をレット人、ラトヴィア語をレット語とも言う。これは現在のラトヴィアが東バルト族に由来する国であることを示している(「余談:リヴォニアではじまった布教活動」の蛇足(1)参照)。
    (*2)「余談:リガのアルベルト」参照。
    (*3)首領ヴェツケ(Vetske)は、これ以前の1205年にリガを訪れ、アルベルト司教に恭順の意を示していたので、この再度の訪問によってアルベルト司教は彼をいっそう信用したのであろう。当時、リトアニアのバルト族は、未だ統一国家を形成していなかったが、活動的で戦闘的な集団で、北方のリヴォニアやエストニア辺りまで遠征して荒しまわっていた。したがって、ヴェツケの訴えもこうした当時の状況を反映していた。
    (*4)現在のラトヴィア南部を東から西に向かって流れている大河ダウガワ川は、当時、南方のリトアニアのバルト族が北上してリヴォニアに侵攻してくるのを防ぐ重要な防衛線となっていた。アルベルト司教は、この天然の防衛線を強化するために、ダウガワ川河口付近のリガを起点として、上流に向って数10km間隔で点々とダウガワ川北岸に堅固な城を構築しようとしていた。コクネセに築こうとした城もこうした防衛線強化の一環であった。
    (*5)セリア人(Seliai)は、南方のリトアニアのバルト諸族と、ダウガワ川の北側を主な居住地域とするバルト族の一派レット人(Letts)との間に挟まれたバルト族であったから、その立場は微妙で、南北両側のバルト族から攻撃されることを避けるために巧妙なバランス外交を展開していたが、どちらかといえば、南のリトアニアのバルト諸族との協調を重視していた。活動的で好戦的なリトアニアのバルト族は、ダウガワ川を渡って北上するときには、セリア人の協力によってダウガワ川南岸で体勢を整え、安全な渡渉地点を選んで渡河し、帰るときにも、セリア人の手引きによって、素早くダウガワ川を渡って南側にもどり、そこで休息するなどしていた。一方、川向こうのダウガワ川北岸の広い地域(現在のラトヴィア東部地域)に住むバルト族の一派レット人は、多くの場合、北上して来るリトアニアのバルト族の攻撃をうけ略奪されていた。しかも、リトアニアのバルト族の渡河と北上を陰で助けているのが南のセリア人であることを知っていたから、彼らの関係は微妙であった。なお、これら3つのバルト族は、当時、言語が殆ど同じで、互いに理解できたようだが、現在では、レット人(ラトヴィア人)のバルト語とリトアニア人のバルト語との相違は大きく、互いの理解は困難になっている。
    (番外)「ダウガワ川」はラトヴィア語で“Daugava”と書かれるので、日本の地図などでは「ダウガヴァ川」とか「ダウガバ川」と片仮名表記されている場合がある。しかし、「ダウガワ川」が実際の発音に近い。また、この川を「ドヴィナ川」とか「西ドヴィナ川」としている地図もあるが、これはヨーロッパ人が昔からこの川を“Dvina”と呼んでいたことによる。さらに、ロシアのドヴィナ川(北ドヴィナ川)と区別するために「西ドヴィナ川」と呼んだ。
    (2015年8月 記)
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