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  • リトアニア史余談34:クライペダ問題/武田充司@クラス1955

     バルト海に面するリトアニア唯一の港湾都市クライペダは、第1次世界大戦が終るまでドイツの東プロイセン最北端の都市であった(1)。

    1252年にドイツ人がこの地に城を築いて以来、この地方のバルト族は進出してきたドイツ人と争ってきたが、クライペダを取り戻すことはできなかった(2)。
     第1次世界大戦でドイツが敗北すると、クライペダ地域(3)はドイツから分離され、暫定的に連合国の管理下に置かれた(4)。リトアニアの人々はこれをクライペダ地域奪還の好機到来と理解した(5)。
    実際、戦勝国の間では、当初、クライペダ地域をリトアニアに帰属させるという考えもあったが(6)、その後、クライペダ地域を国際法上の自由都市にしてはどうかという議論がなされていた。
     リトアニアはこうした動きに不安を感じ苛立っていた(7)。ポーランドは、クライペダが自由都市となれば、やがてドイツの影響力が増すだろうと危惧し、1922年初頭、自由都市案は間違った解決法だと批判した(8)。しかし、クライペダ地域の自由都市国家化への流れが加速しはじめた。
     一方、この年(1922年)の1月8日、リトアニアの首都ヴィルニュスを含むヴィルニュス地域全体を「中央リトアニア共和国」の名のもとに占領していたポーランドの傀儡政権が、お手盛りの国会議員選挙を実施し、2月20日に開かれた最初の国会で、中央リトアニア共和国のポーランドへの併合を決議していた(9)。こうした現実に直面したリトアニアの人々は、結局、領土問題は自分たちの力で解決しなければ何も得られないと考え、クライペダ問題に対する今後の対応をあらゆる角度から再検討し始めた。
     この年の3月になると事態は動き出した。武力による解決も排除すべきではないと考えるようになったリトアニア政府は、同年(1922年)3月、小規模のリトアニア軍部隊をクライペダ地域との境界線に出動させ、示威運動を展開した。この威嚇にクライペダ市内はパニック状態となった。それは丁度、ポーランド議会が中央リトアニア共和国の併合を承認した3月24日(10)と相前後する出来事であった。また、この3月には、事態を憂慮した英国が、「ヴィルニュス地域に対するポーランドの主張をリトアニアが認めれば、その代償として、クライペダ地域をリトアニアに与え、連合国によるリトアニアに対する経済援助を実施する」という提案をしてきた(11)。
     ドイツはこの提案に対して大きな関心を示したが、そこにはドイツの強かな計算があった(12)。しかし、ヴィルニュスを手放す如何なる取引も認めないという国内世論に押されたリトアニア政府は、1922年3月30日、この提案を拒否した。

    〔蛇足〕

    (1)「余談:窓ガラスに刻まれたゲーテの詩」参照。
    (2)ドイツ騎士団の支部となっていたリヴォニア(現在のラトヴィア)のリヴォニア騎士団(旧帯剣騎士団)が、1252年から翌年にかけて、現在のクライペダ(Klaipeda)の地に城を築き、この地域のバルト族を制圧する拠点としたのがクライペダの始まりである。この城はメメルブルク(Memelburg)と呼ばれたため、それ以後、この城郭都市はドイツ人によってメメル(Memel)と呼ばれてきた。
    (3)ここで問題とされているクライペダ地域とは、バルト海に面する港湾都市クライペダと、そこから南に細長くのびたバルト海岸沿いの狭い地域である。
    (4)1919年6月28日の対独講和条約(ヴェルサイユ条約)によってこのような処置が決定され、翌年の2月には、フランスが少数の軍隊を伴った高等弁務官をクライペダに派遣し、この地域の行政権を掌握した。
    (5)バルト族であるリトアニア人の民族意識が高まった19世紀末以来、クライペダ地域の奪還は彼らの重要な課題のひとつとなっていた。そして、第1次世界大戦末期になると、彼らは先を見越してこの地域の帰属問題をドイツ側と交渉していた。
    (6)たとえば、クライペダ地域に関するヴェルサイユ条約の条項に強い不満を示して抗議した敗戦国ドイツに対して、フランスのジョルジュ・クレマンソー首相は、「民族自決の原則に照らしてこれらの条項は妥当である。クライペダ地域は昔からずっとリトアニア人の土地であり、この地域の少数民族であるドイツ人がこの地域に主権を持つ正当性はなく、特に、クライペダ港はリトアニア人にとって唯一の海への出口であることが重視されるべきだ」と応じた。こうしたことが、クライペダ地域奪還に執念を燃やすリトアニア人を鼓舞したようだが、リトアニア人は、小さなクライペダ地域だけでなく、昔のバルト族(プロシャ人)の居住地域であった東プロイセン全体の奪還を夢見て、パリ講和会議の場外でロビー活動を展開していた。
    (7)クライペダ地域の行政の長となっていたフランス人ガブリエル・ペティスネ(Gabriel Petisne)は親ポーランド的人物で、時々、反リトアニア感情を露わにして、「リトアニアがポーランドと合併しない限り、クライペダ地域をリトアニアが獲得することはあり得ない」と言い放つなどして、地域のリトアニア系住民や、それを支援しているカウナスのリトアニア政府の反感を買っていた。また、彼は、この地域の支配階級であったドイツ系市民と親密になり、多くのドイツ人を行政府に登用し、土着のリトアニア系住民を下層階級として軽蔑していた。こうしたことも、クライペダ問題に関するリトアニア人の考え方を過激な方向に向かわせる要因のひとつとなっていた。
    (8)西欧戦勝国、特にフランスにとって、ポーランドは、敗戦国ドイツの強大化を防ぐ対抗勢力と看做されていたから、ポーランドの利益は優先された。ポーランドもこれを利用して自国の領土拡張を図っていた。
    (9)~(10)「余談:ポーランドによる中央リトアニア共和国の合併」参照。
    (11)強いポーランドを望むフランスはポーランドの利害には敏感であったが、小国リトアニアの問題には全く冷淡であった。これに対して、比較的中立の立場の英国は、リトアニアの不満を解消せずにいつまでも事態を紛糾させておけば、リトアニアが連合国に失望してボリシェヴィキのロシアやドイツに接近する恐れがあると考え、このような提案をして問題の早期解決を促したのだ。
    (12)クライペダ地域がポーランドの手に渡るよりもリトアニアに領有させておいた方が、あとからこの地域を取り戻すことが容易だとドイツは考えたのだ。実際、ドイツの新聞は、国際連盟の信託統治領となったクライペダ地域がドイツに返還されることが期待できないのであれば、この地域はポーランドよりもリトアニアに帰属することが望ましいという論調になっていた。(2014年10月記)
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