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  • リトアニア史余談29:スヴァウキ地方をめぐる争い/武田充司@クラス1955

     1920年8月26日、ポーランド軍の大攻勢によって劣勢となった赤軍がリトアニアの首都ヴィルニュスをリトアニア軍に明け渡して撤退していったが(※1)、その同じ日に、ポーランドの代表団がリトアニアの臨時首都カウナスにやってきた。

    彼らは、赤軍と戦うポーランド軍のリトアニア領内進入を認めること(※2)、および、リトアニア南部に隣接するスヴァウキ地方(※3)に駐留するリトアニア軍を「フォッシュ線」まで撤退させることを要求した(※4)。しかし、リトアニア政府は、両国間の国境線画定なしにこのような軍事的要求に応じることはできないとして、彼らの要求を拒否した。すると、その2日後の8月28日、ポーランド軍がスヴァウキ地方重要都市アウグストフ(※5)を急襲して占領した。
     この突然のポーランド軍の侵攻を知ったスヴァウキ地方のリトアニア人は先を争って避難しはじめた。リトアニア政府は直ちにリトアニア軍の主力部隊をスヴァウキ地方に動員して反撃した。こうして、スヴァウキ地方をめぐる「リトアニア=ポーランド戦争」がはじまった(※6)。しかし、優勢なポーランド軍がリトアニア軍を撃退すると、9月5日、ポーランド政府は国際連盟(※7)にこの紛争の調停を要請した。その要請の中で、ポーランド政府は、リトアニアが中立を破ってポーランド領に侵攻してきたと非難した。一方、リトアニア側はポーランド軍に直接呼びかけて話し合いを求めたが、ポーランド軍は回答を引き延ばし、戦闘を続行した。
     9月16日、ようやく両国の直接交渉が開始され、戦闘は中止された。しかし、交渉は2日で決裂した。一方、国際連盟は、9月20日、両国に対して直ちに停戦してフォッシュ線を遵守することを要求し、スヴァウキ地方に監視団を派遣することを決議した。しかし、赤軍との戦いに不都合な如何なる制約もうけたくないという理由で、ポーランド側は態度を保留した(※8)。そして、2日後の9月22日、ポーランド軍はリトアニア軍に対して全面的な攻撃を開始した。瞬く間にスヴァウキ地方を制したポーランド軍は、リトアニア南部に侵攻してきた(※9)。軍事的に劣るリトアニアは、この事態に危機感を募らせた(※10)。
     優位に立ったポーランド政府はスヴァウキ問題解決のための直接交渉をリトアニアに提案してきた。厳しい現実を直視したリトアニア政府は、スヴァウキ地方をポーランドに譲渡する代わりに首都ヴィルニュスとヴィルニュス地域全体をリトアニア領としてポーランドに認めさせる覚悟で、ポーランドとの交渉に応じた。1920年9月29日、交渉が開始され、スヴァウキ地方での休戦合意は成立したが、国境線画定問題では両者の溝は埋まらず、時間が空費された。それはポーランド軍の意図するところでもあった(※11)。
    [蛇足]
    (※1)「余談:赤軍の再侵入」参照。
    (※2)「余談:赤軍の再侵入」で説明したように、この年の7月12日にモスクワで締結されたソヴィエト政府との平和条約の「第2項の補足」で赤軍の国内進入を認めていたリトアニア政府は、ポーランドのこの要求によって窮地に立たされた。これは、ポーランド軍と赤軍の戦いに対して中立を守ろうとしたリトアニアの政策の破綻であった。しかし、たとえリトアニア政府が拒否しても、赤軍もポーランド軍も勝手にリトアニア領内に入ってきたはずだ。
    (※3)スヴァウキ(Suwalki)地方は現在のポーランド北部、リトアニアと国境を接する地域で、そこには、スヴァウキ(Suwalki)という都市があるが、本来、この地域は国境を挟んでリトアニアのスヴァルキヤ(Suvalkija)地方と一体の地域で、昔は、全体としてリトアニア大公国に属し、バルト族の一派スヴァルキヤ人(スードヴィヤ人ともヨトヴィンギヤ人ともいう)の居住地域であった。
    (※4)「フォッシュ線」は1919年7月末に連合国によって提案されたが、ポーランドもリトアニアもこれを認めていなかった(「余談:不幸な争い」の蛇足(6)参照)。しかし、「フォッシュ線」はスヴァウキ地方をポーランド領としていた。これに乗じてか、このあと間もなく、ポーランドは特殊部隊を使ってスヴァウキ地方に反乱を起させてリトアニア軍を駆逐し、同年(1919年)9月、スヴァウキ地方を占領した。その後、1920年4月末に始まった「ポーランド=ソヴィエト戦争」(「余談:赤軍の再侵入」の蛇足(5)参照)で赤軍が圧倒的に優勢となった1920年7月から8月上旬にかけての時期に、リトアニア軍はスヴァウキ地方をポーランド軍の手から奪い返していた。しかし、8月中旬の「ヴィスワの奇跡」によって戦況の大逆転に成功したポーランド軍は、再びスヴァウキ地方からリトアニア軍を追い出す魂胆であった。
    (※5)アウグストフ(Augustow)は、先に述べた都市スヴァウキ(この蛇足の(3)参照)の南方約30kmにある都市で、現在はポーランド領内であるが、ここも昔はリトアニア大公国の領土であった。
    (※6)大軍を投入したリトアニア側は、当初、優勢に戦いを進めたが、直ぐにポーランド軍の反撃に遭って劣勢となった。
    (※7)国際連盟はこの年(1920年)の1月16日に初会合を開いて発足したが、第1回総会はこの年の11月に開かれたので、この時はまだ初総会の前であった。
    (※8)国際連盟は、この裁定の中で、ポーランドに対してリトアニアの中立を尊重することを求めたが、その条件として、ポーランドと交戦中の赤軍もリトアニアの中立を犯さないこととしたため、ポーランド軍は実質的に何の拘束もうけないことになった。しかし、ポーランドの軍事力の前に限界を感じていたリトアニアは、この裁定を受け入れた。それは、スヴァウキ地方を放棄することを意味した。
    (※9)スヴァウキ地方から東進して現在のリトアニア南部に侵入したポーランド軍は、ドゥルスキニンカイ(Druskininkai:「余談:ユニークな野外博物館」の蛇足(1)参照)の北方でニェムナス川を渡り、さらに東進していた。これは、リトアニアの首都ヴィルニュスに迫る作戦の一環であった。
    (※10)この頃、ポーランドは、リトアニアの独立を阻止してリトアニアを含む昔の大ポーランドを再建することは無理と考え始めていたようで、それならば、何とかして、少しでも多くの領土をポーランドに併合し、できるだけ小さなリトアニアの独立を容認しようとしていた。
    (※11)ポーランドは交渉を長引かせて時間稼ぎをし、その間に、軍事的な次の一手を準備し、首都ヴィルニュスを含むヴィルニュス地域の併合を狙っていた。
    (2014年5月記)
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