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  • リトアニア史余談27:ベルモント軍との戦い/武田充司@クラス1955

     1919年の9月になると、赤軍はほぼリトアニア全土から駆逐され、代わってポーランド軍がリトアニアの東部地域を占領していた。

    しかし、一部の地域を除いてポーランド軍との激しい戦闘はなく、カウナスを臨時首都としたリトアニア政府はようやく安定の兆しを見せはじめていた(1)。 しかし、赤軍との戦いに気をとられている間に、北のラトヴィアから南下してきた「ベルモント軍」と呼ばれる独露混成の白軍(2)が、リトアニアの北西部を占領していた。
     ベルモント軍は、占領地域の住民にリトアニア語の使用を禁止し、ロシア語を公用語として強制していた。そして、リトアニアはもう直ぐ専制国家ロシアの一部になるのだと言い触らし、住民から食糧などを略奪し、抵抗するリトアニア人民兵を拘束して武装解除していた。その一方で、ベルモント軍の中のドイツ人は、クーデターによってリトアニア政府を転覆して彼らに都合のよい親ドイツ政権の樹立を企んでいた。

     そこで、赤軍との戦いが終ったリトアニア軍は、10月になると、ベルモント軍を駆逐するための本格的な作戦を展開した。ところが、リトアニア東部を占領していたポーランド軍は、リトアニア軍の手薄になった地域で再び活動を活発化させた(3)。困惑したリトアニア政府はポーランド軍と交渉して、ベルモント軍と戦っているリトアニア軍を背後から攻撃しないという約束を取りつけた(4)。これでようやくベルモント軍との戦いに集中できるようになったリトアニア軍は、11月21日から22日にかけて、カウナスの北方約100kmに位置する重要な鉄道の交差点ラドヴィリシュキス(5)付近の戦闘で決定的な勝利をおさめ、ベルモント軍を敗走させた(6)。

     連合国側もこうした事態を重く見て、ベルモント軍に対して、戦闘を止めてリトアニアから撤退するよう要求し、撤退監視団を送り込んできた。その結果、この年の12月15日までにベルモント軍はリトアニアから完全に撤退して行った。

     このあと、リトアニアに駐在していたドイツ政府代表は、リトアニアとの関係悪化を恐れて、リトアニアに残留していたドイツ軍の撤退を促進した。

     こうして、1919年末までには、リトアニアに侵攻してきた外国勢力はほぼ完全に排除されたのだが、首都ヴィルニュスを含む東部一帯はポーランド軍の支配下に置かれたままであった。このとき既に、第1次世界大戦が終った1918年11月から1年以上も経っていた。そして、リトアニアがドイツ軍の占領下で独立宣言をした1918年2月16日(7)から、やがて2年が過ぎようとしていたのだが、独立の戦いは未だ道半ばであった。

    〔蛇足〕

    (1)「余談:不幸な争い」参照。

    (2)「白軍」は反ボリシェヴィキを旗印とし、英仏などから支援をうけて、ロシア各地で「赤軍」と戦っていた義勇軍的な軍事集団である。デニーキンに率いられた南ロシアの白軍は特に有名だが、北西ロシア、すなわち、バルト地域にもそうした白軍が活動していた。パヴェル・ベルモント・アヴァロフ(Pavel Bermondt-Avalov)に率いられた白軍は、専制国家ロシアの復活を夢想していた北西ロシアの白軍であったが、当時、白軍の中には共和制支持の軍団も多く、専制主義者はむしろ少なかったようだ。一方、第1次世界大戦が終ったあと、連合国は赤軍がバルト地域を占領するのを恐れ、ラトヴィアにいたドイツ軍に暫く留まるよう要請したが、モラルの低下したドイツ軍兵士の多くは帰国した。しかし、この要請にしたがってラトヴィアに残留したドイツ軍のリューディガー将軍(R$00FCdiger von der Goltz)は、残留した士気の高い兵士や志願兵などを集めて「鉄師団」という軍団を組織して赤軍と戦い、成功をおさめた。しかし、彼は、バルト地域に親ドイツ政権を樹立しようという野心をもっていた。そのため、役割を果たしたあとも何とか残留を決め込んでいた。しかし、連合国の厳しい帰国命令に、結局、帰国を決断したのだが、帰国するときに、虎の子の「鉄師団」をパヴェル・ベルモント・アヴァロフの白軍に合流させた。こうして、通称「ベルモント軍」と呼ばれる特異な独露混成の白軍が生まれた。なお、蛇足を重ねるならば、リューディガー将軍は、大戦末期に、フィンランドに侵攻した赤軍を駆逐してヘルシンキを奪還し、フィンランドを赤軍の手から救った功労者である。また、パヴェル・ベルモント・アヴァロフは、グルジア出身であるが、帝政末期に存在した12のコサック軍団のひとつ、ウスリー・コサックに身を投じた男で、その後、バルト地域にやってきた。ウスリー・コサックは、名の如くウスリー川下流のウラジオストク辺りを本拠としたコサック軍団である。南ロシアの白軍に合流したクバン・コサックやドン・コサックなども、この12のコサック軍団のひとつである。

    (3)リトアニア軍がベルモント軍との本格的な戦いを開始した直後の10月5日、ポーランド軍はサラカス(Salakas)を占領した。サラカス(Salakas)はリトアニアの北東隅の小さな町であるが、カウナスから北東へ160kmも離れた、現在のラトヴィアとベラルーシの国境に近い町である。また、10月12日には、リトアニア南端の小さな町カプチャミエスティス(Kapciamiestis)がポーランド軍の攻撃をうけたが、この町は、サラカスとは逆に、カウナスから南方に約100km離れたポーランドとベラルーシの国境に近い町である。したがって、こうしたポーランド軍の行動が、ベルモント軍排除を目指すリトアニア政府を悩ませたことは想像に難くない。

    (4)ポーランド軍の目的は、リトアニアを含めた大ポーランドの建設であったから、「ベルモント軍」を排除することは彼らにとっても必要なことであった。

    (5)ラドヴィリシュキス(Radviliskis)は、「十字架の丘」(「余談:十字架の丘」参照)で有名な、この地方の中心都市シャウレイ(Siauliai)の東南約20kmに位置する小都市だが、この都市の郊外で、南北に走る鉄道と東西に走る鉄道が交叉している。

    (6)この勝利で、リトアニア軍は多くの戦利品を得たが、その中に飛行機があったという。のちに、この飛行機がリトアニア軍にとって大いに役立ったらしい。

    (7)「余談:独立回復への一里塚」参照。 

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