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  • リトアニア史余談24:幻の立憲君主国家/武田充司@クラス1955

     第1次世界大戦の最中の1918年2月16日、ドイツ軍占領下のリトアニアはドイツ政府の意向に逆らって独立宣言をしたが、それによって駐留ドイツ軍当局とリトアニアの関係はさらに悪化した(※1)。

    この状況を打開しようと、同年3月23日、リトアニア代表団はベルリンに赴き、独立宣言の内容を説明し承認を求めた。しかし、当然のことながら、ドイツ政府はそれを拒否したのだが、その同じ日に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が声明を出し、リトアニアがドイツ帝国と強い絆で結ばれた独立国となることを示唆した(※2)。
     それから暫くすると、プロイセンあるいはザクセン王家の者がリトアニアの君主となることを条件に、リトアニアの独立を認めるという案がドイツ政府内で議論されているという噂が流れた(※3)。これを知ったリトアニア評議会は、そうなればリトアニアが独立国となっても早晩プロイセンかザクセンに併合されてしまうという危機感を募らせた(※4)。そこで彼らは噂の両案を潰すために、次善の策として、ドイツ帝国と共存しつつリトアニアの独立を守ってくれそうな君主候補者を探した。その結果、南ドイツのヴュルテンベルク王国のウーラーハ公ヴィルヘルム(※5)をリトアニア王として招き、リトアニアを立憲君主国家とすることにした(※6)。
     8月12日、リトアニア評議会はウーラーハ公ヴィルヘルムをリトアニア王ミンガウガス2世(※7)として招請する旨の書簡を送った。ヴィルヘルムは早速リトアニアの歴史やリトアニア語の勉強をはじめたというが、しかし、そのころ、第1次世界大戦の戦況は急速に変化し、既にドイツ敗北の兆しが見えていた。
     10月3日、ドイツで政変が起り、自由主義的貴族バーデン公マキシミリアンを首班とする内閣が発足すると、ドイツは米国を通して休戦交渉をはじめた。マキシミリアンはリトアニアの独立を認め、占領軍による軍政をリトアニア側に移管する旨通告してきた。これをうけて、リトアニア評議会は暫定憲法の制定と臨時政府の樹立の準備を急いだ。激変する状況の中で、11月2日、リトアニア評議会は立憲君主国家の構想を白紙にもどした。1918年11月11日、第1次世界大戦は終った。リトアニアの立憲君主国家としての独立は夢と消え、リトアニア評議会は新たな構想のもとに再出発することを迫られた(※8)。
    〔蛇足〕
    (※1)「余談:独立回復への一里塚」参照。
    (※2)皇帝によるこの独立承認は、前年12月11日の「決議書」(「余談:独立回復への一里塚」参照)を基礎としたもので、リトアニアがドイツ帝国の衛星国家となることを意味していた。
    (※3)事実、プロイセン国王(=ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)自身か、あるいは、国王の末子ヨアヒム(Joachim)をリトアニア王にしようとする動きがあった。しかし、ドイツ帝国内でプロイセンが強大化するのを嫌っていたザクセンは、これに対抗して、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト3世の次男フリードリヒ・クリスチャン(Friedrich Christian)をリトアニア王にしようとしていた。歴史的にも、リトアニアがポーランドと一体の国家となって以後のポーランドには、「ザクセン時代」(1697年~1763年)という時代があって、当時は選帝候であったザクセン公アウグスト2世とその息子アウグスト3世がポーランド王となっていたから、ザクセンにとって、これは「夢よ、もう一度」の話であった。
    (※4)彼らの危機感を決定的なものとしたのは、5月19日(1918年)に開かれたドイツ側との会議であった。この会議の席上、ドイツ側は、リトアニアに対して恒久的なドイツの同盟国となることを条件に独立を認めるという案を示した。しかし、それによると、リトアニアの独立は名ばかりとなり、自治権は殆ど認められないことが明らかになった。
    (※5)ヴュルテンベルク(W$00FCrtemberg)はシュトゥツガルトを都とする神聖ローマ帝国内の公国であったが、ナポレオンに協力したことから、1806年に君主が王を名乗ることを許されヴュルテンベルク王国となった。同年、神聖ローマ帝国は消滅したが、ナポレオン失脚後のウイーン会議以降、ヴュルテンベルク王国は「ドイツ連合」の有力メンバーとなった。ウーラーハ(Urach)公家はヴュルテンベルク王国の初代国王フリードリヒ1世の弟ヴィルヘルムの息子に始まる王国内の公家であるが、リトアニアが担ぎ出そうとしたのは、この家の2代目の当主ヴィルヘルムである。この当時、ヴュルテンベルク王国には世継ぎ問題があって、このウーラーハ公ヴィルヘルムも王位継承権をもっていたが、彼の祖母が身分の低い女であったため、王位継承候補者から外されていた。これはリトアニアにとって好都合であった。それに加えて、彼は19歳で職業軍人となり、第1次世界大戦ではドイツ軍の司令官として各地に転戦し、豊富な軍事経験を積んでいた。これも、独立を勝ち取ろうとするリトアニアにとって魅力的であった。また、ヴュルテンベルクがカトリックの国であることも、プロテスタントのプロイセンなどに比べて、カトリック教徒であるリトアニア人には受け入れ易かった。そして、リトアニア人が警戒していたポーランドとも特別な関係がないこと、また、北ドイツのプロイセンやザクセンとは、むしろ対抗する存在であったことなどが、総合的に評価された。なお、ウーラーハ公ヴィルヘルムをリトアニア王候補として紹介したのは、同じヴュルテンベルク王国出身のマティアス・エルズベルガー(Matthias Erzberger)であったという。この人物は、第1次世界大戦終結時に、ドイツ代表として連合国側との休戦交渉に当たった政治家である。
    (※6)この決定はリトアニア評議会常任幹部会の秘密会議でなされたが、賛成13、反対5、棄権2で、反対票を投じた5人のうち左派の4人が決定を不服として評議会を去った。しかし、今回は彼らを呼び戻す妥協をせず、新たに6人の保守派評議員を追加して評議会を強化した。そして、7月1日(1918年)、リトアニア評議会の代表は南ドイツのフライブルクでウーラーハ公ヴィルヘルムと会い、具体的な交渉を行った。このとき、ヴィルヘルムはリトアニア王となることを快諾したという。この交渉のあと、7月13日、リトアニア評議会はウーラーハ公ヴィルヘルムを君主とする立憲君主国家となることを正式に議決した。
    (※7)ミンダウガス2世(Mindaugas Ⅱ)としたのは、リトアニア建国の祖ミンダウガス王にあやかってのことである。「余談:ミンダウガスの戴冠」参照。
    (※8)立憲君主国家構想は、国外から独立を支援していた人々の間では不評であった。彼らは民主的共和制を望んでいた。また、ドイツの敗北によって、リトアニアの運命は連合国側に握られてしまったから、ドイツとの共存を狙った構想は無意味となった。
    (2013年12月記)
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