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  • エル・グレコ展/斎藤嘉博@クラス1955

      先月末、会期の残りも少なくなったエル・グレコ展を観にいってきました。上野は丁度桜が満開で沢山の人出で賑わっていましたが、都立美術館での展覧会はほどほどの人の入り。


      
      グレコと言えば宗教画。三階の最後の会場に展示された目玉、「無原罪のお宿り」はさすがに圧巻で、多くの人がこの絵に見入っていました。床に膝をついて低い位置から見上げると中央の聖母マリア様の顔が浮かび上がって、たしかに立体的に見えるのも不思議です。その周辺に細かく描きいれた天女たち。ちょっと気づきにくい下部に街の様子が描かれているのも天女たちとの所作や表情と違和感があってなにか新鮮な感じがしました。そのほか「聖アンナのいる家族」、「瞑想する聖フランチェスコと修道レオ」や「羊飼いの礼拝」など、いくつかの宗教画を楽しむことができました。しかしキリスト教にあまり関心のない私、旧約聖書も読んだことのない私にとって、これらの宗教画は源氏物語を読まないで源氏絵巻を観るようなもの。スペインに赴き、教会の中に飾られたものを観るといった雰囲気でもあればやや感慨もわくかもしれませんが、展覧会場で絵だけを見たのではその本当の意味なり面白さは到底知ることができません。
    グレコa.jpg
      今回の展覧会で私がちょっと気になったのが肖像画に描かれた人物の手の様子でした。手のひらにくらべてやや長すぎる指。「悔悛するマグダラのマリア」ではドクロの上に置かれた左手。「聖ヒエロニムス」の肖像では聖者が十字架を持っている左手。これらの指を見ているとグレコは何を語ろうとしたのかナと、話題になったトレイシー・シュバリエの「真珠の耳飾りの少女」ほどではなくても、裏に隠されているであろうさまざまのことが連想されるのでした。
      そういえば過日、たまたまE2チャンネルのテレビ「スーパープレゼンテーション」の番組でシュバリエがその本についての講義をしている場面に出会いました。その中で彼女は「レストランでメニューを見たときにそのすべてを食べますか?いやその中から自分のほしいもの、気に入った料理を選んで注文するでしょう。展覧会の絵を見るのも同じで沢山の展示絵のなかから本当に自分の気持ちにあった絵をゆっくりと鑑賞すればよいのです」と話していました。メニューと展覧会の展示を同列に論じるのもやや乱暴とは思いますが、話の趣旨はわが意を得たり。わたしも展覧会を見るときにはいちどざっと全体の様子をみたあと初めに帰って、もう一度なにか気が残った数点をゆっくりと観るのが習わしです。
      そんな意味で無原罪は別としてマグダラのマリア、聖ヒエロニムスなどは二回あらためて見た絵、なにかこころにひっかかった絵でした。それにしてもフェルメールのたった一枚の絵に描かれた少女の表情から、あれだけの小説を書き出すシュバリエの想像力とエネルギーは大変なものだなと思うのです。
      

    1件のコメント »
    1. エル・グレコ展のお話を拝見して、昔の不思議な体験を思い出しました。私が小学生の頃だと思いますが、お墓参りに倉敷を訪れた時に、大原美術館に連れて行ってもらいました。多くの名画が展示されていましたが、当時入口近くに展示されていたエル・グレコの「受胎告知」を見上げた時の強烈な印象だけが、その後もずっと残っていました。戦時中のことでもあり、「受胎告知」の意味など知る由もなかったのですが、神秘的というか、異様な魔力に圧倒されました。社会人になってからは、大原美術館を訪れたことは多いのですが、小学生の頃の感受性は薄れてきたような気がします。

      コメント by 大橋康隆 — 2013年4月11日 @ 21:24

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