• 最近の記事

  • Multi-Language

  • リトアニア史余談2:パジャイスリス修道院(改版※)/武田充司@クラス1955

     パジャイスリス修道院(※1)はカウナスの旧市街から直線距離にして9kmほど東の郊外にあるが、現在は第2次大戦後ニェムナス川を堰き止めてつくった人造湖(※2)に突き出した岬の先端に位置している。

    したがって、修道院をとりまく自然環境は昔とは全く違ってしまったが、そこにある教会はリトアニアでも屈指の美しさを誇るバロック建築の傑作として大切に保存されている。
     17世紀後半につくられたこの教会は、イタリアの建築家によって設計されたもので、内装もイタリア人の手によるものである。内部に使われている美しいピンクと黒の色大理石はポーランドから運ばれてきた。しかし、リトアニアがロシア帝国の支配下にあった1832年には、ロシア正教の教会として改修された。そうした歴史を物語るかのように、この教会には、“God Save the Tsar”として知られているロシア帝国の国歌の作曲者アレクセイ・リヴォフ(※3)の亡骸が埋葬されている。
     第1次大戦後、リトアニアが独立を回復すると、廃墟のようになったこの教会がカトリックの教会として再生した。リトアニアの修道女たちの献身的努力によって、荒廃した教会は徐々に輝きをとりもどしたのだが、リトアニアは再び第2次大戦の戦渦に巻き込まれ、大戦後、ソ連の官憲によって修道院も教会も閉鎖された。そして、文書保管庫として使われたり、精神病院となったり、最後には、美術館として使われていた(※4)。その間に荒廃は極に達し、絶望的な状態となっていたが、1991年、ゴルバチョフが失脚し、リトアニアが独立を回復すると、修道女たちが戻ってきて居住するようになり、修復作業が開始された。しかし、独立回復後の新生リトアニアは、貧困のどん底に喘いでいたから、資材も資金も集まらず、その復旧作業は遅々として進まなかった。
     いまから15年ほど前の1990年代の後半、僕はこの修道院を訪ねた。教会の扉は固く閉ざされていて、辺りに人の気配もなかったから、教会の前庭から美しい教会のファサードを眺めていた。そこに修道女が通りかかったので、彼女に中を見せてくれるよう頼んだ。彼女は気持ちよく教会の扉の鍵をあけて招き入れてくれた。内部は工事中で足場板などが雑然と置かれていたが、埃っぽく、とても毎日作業をしているようには見えなかった。資金難で工事が中断していたのだ(※5)。教会の脇にある修道院の建物の前を通って、再び教会の入り口にもどったとき、いつの間に用意していたのか、彼女は別れの挨拶とともに僕に林檎をくれた。修道院で作っている林檎なのだ。
     それから5~6年経って、僕はまたこの教会を訪れた。教会の扉は訪問者を歓迎するかのように開かれ、中に入ると浄財を募る募金箱もあった(※6)。黙って10リタスの紙幣を入れて祭壇の方に進むと、まだ修復中の箇所もあったが、教会の主要部は見事に復元され、美しい色大理石の柱が輝いていた。リトアニアの多くの教会がそうであるように、この教会も人間の身の丈に合った大きさで、静寂のなかに漂う穏やか雰囲気が訪れた人の心を優しく包んでくれる。この美しい教会が、大勢の人たちの協力によって、再生したことを僕は肌で感じることができた。あとから聞いたのだが、1996年以来、毎年夏、ここで国際音楽祭が開かれていて、それが年々盛んになり、国内外から多くの観光客を集めるようになったとか。メニューインも、晩年に、ここで2度演奏している。出演者リストの中に、日本の音楽家や合唱団の名も見られるようになった。
    〔蛇足〕
    $00A0(※1)パジャイスリス修道院(Pazaislis Monastery)は、リトアニア語では“Pazaislio vienuolynas ir baznycia”と言っているので、これを英語に直訳すると“Pazaislis Convent and Church”となる。すなわち、これは女子修道院で、そこに教会が併置されている。
    (※2)この人造湖はカウノ・マリオス(Kauno marios)と呼ばれ、101MWeの水力発電所が付随している洪水調整用のダム湖である。発電所は1960年4月に運開し、それ以後、カウナスの街はニェムナス川の春の洪水に悩まされることがなくなった。カウナスの旧市街の外れには、昔の大洪水時の水位を示す標識がある。
    (※3)アレクセイ・リヴォフ(Alexei Lvov)は、1799年6月、エストニアのタリン(Tallin)で生まれ、1870年12月、リトアニアのカウナス(Kaunas)で亡くなった。
    (※4)ソヴィエト連邦時代には、こうしたことは何処にでも見られたことで、パジャイスリスの教会に限ったことではない。殆どの教会が、精神病院や、倉庫として使われ、ひどい時には、無心論者の集会所となったという。カウナスには倉庫としてれ使われた教会があるが、内部空間を最大化するために教会としての全てのものが撤去されたから、がらんとした空間だけが残っていた。
    (※5)こうした工事の中断は、当時よく見られた光景である。修復のための足場で囲まれた教会の塔が何年もそのままの状態で放置されていたのを見て、そのうちに足場が痛んで崩れ落ちないかと心配したこともあった。
    (※6)ソ連が崩壊して西側の国家となった当時のリトアニアでは、募金箱を置くことなど考えられなかったのか、めったに募金箱にお目にかかれなかった。その後次第に西側の習慣が広まったのか、ヴィルニュスの空港にも募金箱が置かれるようになった。
    (※お詫び)旧版では、パジャイスリス修道院を、ナポレオンが宿泊した修道院という書き出しで紹介したが、これは誤りで、ナポレオンが1812年6月24日夜泊まった修道院は、カウナスの現在の旧市街から東へ約1kmの地点のニェムナス河畔の修道院で、現在のカウナキエミオ通り(Kaunakiemio g.)とゲディミノ通り(Gedimino g.)が出会う地点にあった。
    (2012年5月 記)
    1件のコメント »
    1. 最近、在京のリトアニア人の友人から聞いたのですが、パジャイスリス修道院の教会は今年の2月に火災に遭ったそうです。本当だとすれば、どこまでも不運な教会で残念です。

      コメント by 武田充司 — 2012年6月2日 @ 21:01

    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。