オニオンとセロリ(大越君の思い出)/森山寛美@クラス1955
記>級会消息 (2010年度, class1955, 消息)
大曲幹事団のご苦労で55年会が盛会裏に行われたことは何よりでした。この機会に卒業記念アルバムを開いてみたのですが、
アルバムの最後に、新井君、大越君、大曲君、山崎君と旅行した、尾瀬や奈良で撮った写真が貼ってありました。
大越君の学識には感嘆しきりでしたが、小生にはあまり縁のなかった例えば岩波書店発行の「世界」のような総合雑誌の論説が話題になりました。そこでは、理論(セオリ)が展開され、意見(オピニオン)が戦わされています。そういった話題についていくのは苦手でしたが、苦し紛れに「オピニオンとセオリ」をもじって「オニオンとセロリ」と皮肉ったのです。これに対し一瞬あって、「森山にしては上出来」と褒められた?のです。大越君に褒められることはまずなかったので悪い気はしませんでしたが。
大越君の多才さは理論にとどまらず、音楽に関する一面でも、物置でオルガンを練習して演奏・作曲をものにし、後にDTM(デスクトップ・ミュージック)を駆使して作曲を行ったりしています。DTMは小生もトライしましたがものにはなりませんでした。演奏もエレクトーンを下手の横好きで弾いてはいますが、大越君の足元にも及びません。また、彼は学会でも活躍されており、詳細については知る機会がありませんでしたが、学会雑誌に載った「論文翻訳の手法」や「電線地中化」の話が記憶に残っています。業績半ばでの早世が惜しまれます。
2010年11月21日 記>級会消息
「枕投げ」騒動はよく覚えていないけど、大越君について直ぐ思い出すのは彼がピアノの達人だったようだということ。交響曲をピアノにアレンジした曲が特に好きだったようです。誰の曲だったか忘れましたが、「左手が4拍打つ間に右手は5拍分刻まなければいけないので難しいんだ」などと自慢げにぼやいていた(?)ことを鮮明に覚えています。
「30年会」は東芝・日立担当、東芝が代表幹事となり大沼君のコネがあったので新宿のヒルトンホテルを選び、しかも一泊つきという新企画でやりました。当時は、大学に残った秋山・大越両君が常任幹事として同期会をサポートすることになっていたようで、特に大越君には幹事会での書記長役を始め、内閣官房長官のような立場で随分仕事をしてもらいました。
大越君も大沼君も鬼籍に入られて淋しい限りです。
コメント by 大曲 恒雄 — 2010年11月21日 @ 20:27
卒業55年会後に、卒業アルバムを開いて大越君の思い出をタイムリーに投稿された森山兄に感謝します。私も卒業アルバムを開いて見ました。岡村研で共に卒業論文の実験や勉強をした頃を思い出します。私は専ら低周波談話会やテニスで羽根を伸ばしていたようです。
大越君と同じ岡村研でしたので、追悼集「大越孝敬先生の思い出」に「不思議な出会い」という珍しい思い出を載せてもらいました。この追悼集を読むと、大越君の数々の業績や人柄が偲ばれます。
1983年に京王プラザホテルで開催されたIOOC(光通信国際学会)では、委員長として活躍されました。当時私も光通信の導入に従事していたので、活躍の一端に接することができました。
あまりに早く逝かれ、残念でなりません。
コメント by 大橋康隆 — 2010年11月21日 @ 21:52