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  • 立石寺から最上川へ/井村英一@クラス1955

     昨年10月17日、松尾芭蕉の「おくの細道」を偲び、立石寺(山寺)と最上川へ行ってきた。


    好天に恵まれた。山形新幹線で山形へ行き、仙山線に乗り換え、昼過ぎに山寺駅に着いた。旅行記などで名高い登美屋で山形名物の板そばを食べてから、山寺に登った。
    先ず、根本中堂に参拝し、芭蕉の句碑「閑かさや巌にしみ入蝉の声」を見た。芭蕉と曾良(弟子)の銅像があった。そして、1015段の石の階段を休み休み登った。登るに従って、上の方では、風があって涼しく、だんだん調子が出てきた。五大堂からの展望は、眼下に擂り鉢状の盆地が開けていて、素晴らしい眺めだった。一番上の、奥の院と大仏殿に参拝した。あたり一面、紅葉が始まっていた。

     山寺(奥の院と大仏殿)a.jpg  霞城公園a.jpg
       山寺(奥の院と大仏殿)      霞城公園

     
     山形駅近くのホテルに宿泊した。翌朝も晴れだった。午前中、山形市内の霞城(かじょう)公園を訪れた。ここは山形城址である。二の丸東大手門とその両側の多門櫓(たもんやぐら)が復元されていた。城主だった最上義光(もがみよしあき)の歴史館には、弾傷のある彼の兜が展示されていた。これは、織田信長から拝領したものだが、上杉軍との戦いで受けた銃弾の跡がある。
    NHKの大河ドラマ「天地人」で描かれていたように、1600年に関西で「関ケ原の戦」があった時、これに呼応して直江兼続(なおえかねつぐ)率いる上杉軍が山形に怒涛の如く侵攻した。しかし関ケ原で西軍が敗れたとの報に接し、急遽、撤兵した。これを最上義光が追撃した時に受けた銃弾の跡という。
     
     

     最上川舟下りa.jpg
        最上川舟下り

    午後は山形新幹線で新庄へ行き、最上川舟下りをした。古口で船に乗り、下流の草薙温泉まで、12kmを約1時間で下った。最上川は、江戸時代、交通や通運の大動脈で、米や紅花を積んだ舟が、山形から酒田港へ向かった。松尾芭蕉が乗ったのは、旧暦5月の末、新暦では7月中旬、梅雨の後半で、川は濁流となって流れていたのであろう。
    「五月雨を集めて早し最上川」
    私が乗ったときは、水量はそれほどではなかったが、川幅50mもある大きな川である。船に乗る頃には雨が降り出し、降りる頃は大分強くなってきた。船頭が「おくの細道」の一節を朗読したり、最上川音頭を怪しげな英語で歌ったりした。
     帰りの新幹線では、もう晴れていた。

    4 Comments »
    1.  如何にも俳句に精進されている井村兄の文章だと納得のゆく名文だと思います。ここしばらく貴兄自作の句があまり見られないようですが、そろそろご披露下さい。
       遅くなって恐縮ですが、昨秋の貴兄の投稿についてです。江の電の二つの句の比較、小生にはそれぞれに良いと思えます。ご自分の句について、謙遜し過ぎという事はないのでしょうか。

      コメント by 寺山進 — 2010年3月3日 @ 17:16

    2. 私も「岩にしみいるせみの声」が好きで作波、天童、上山の温泉に泊って三回立石寺に行きました。最初は1956年だったと思いますが、そのときには山の上から下まで滑り台になっていて、帰りは滑って降りたのを記憶しています。ナガーイ滑り台ですからお尻に莚を敷いてすべりを良くすると同時にズボンに穴が開くのを防いだのでした。今はどこも安全第一でこうしたスリルを楽しむ余地が無くなってしまっているようです。古い私の記憶を呼び戻していただけた楽しいブログでした。

      コメント by サイトウ — 2010年3月4日 @ 23:06

    3. 御読み頂き有り難う御座いました。私の俳句の力はまだまだです。一応形は出来てきましたが、言外に詩情を出すことが出来ず苦しんでいます。お言葉に甘え、次号に昨年の私の俳句10句を載せて頂くことにしました。ご一覧下さい。
      山寺から降りるのに、滑り台があるのは知りませんでした。もう一度行く機会がありましたら試してみたいと思います。

      コメント by 井村 英一 — 2010年3月7日 @ 12:44

    4. 滑り台は現在撤去されてありません。多分危険が伴うという理由でしょう。残念ですが。

      コメント by サイトウ — 2010年3月8日 @ 09:15

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