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  • 放送衛星の黎明期(上)/大曲恒雄@クラス1955

     1974年2月突然「放送衛星プロジェクト本部」への異動を指示された。

    東芝/GEチームによる実験用中型放送衛星BS(*1)の受注が決まり開発が本格的にスタートするため特別組織が発足、小生もこの組織へ参画することになった。この時の人集めのやり方は強引で、当人の担当している仕事の現状にはお構いなく新プロジェクトに必要だから寄越せというもの。働き盛りの技術者を引き抜かれた方は大変だったと思うが(*2)、会社としての力の入れ方を表していたものとも言える。
     小生は以後約6年間、前半は管制・運用システム開発の責任者として、
    後半はプロジェクト全般の責任者としてこのプロジェクトに深く関わることとなった。

     (*1)正式の英文略語はBSE:Broadcasting Satellite Experimentalであるが、後にこの略語はBovine Spongiform Encephalopathy(牛海綿状脳症)に取られてしまった(?)ため、ここではBSを使用する。
     (*2)小生は当時課長だったが、部下を引き抜かれた方と自分が引き抜かれる方の両方の立場を経験した。前年夏、このプロジェクトの予備設計段階で部下の1人を強引に動員されて不愉快な思いをしていたが、今度は自分がそのプロジェクトに飛び込むことになり複雑な気持ちを味わった。

     現在では人工衛星からの電波を受けてテレビを見るのが当たり前のことになっており放送衛星はインフラの一部になっているが、この「放送衛星インフラ化時代」への先駆けとなったのがBSプロジェクトである。もう30年以上も前のことになるが、この大プロジェクトをメーカーの人間の立場から振り返ってみたい。
    テレビジョン学会誌(a).jpg

    1. 衛星の開発
     それまでに打ち上げられた我が国の衛星はすべてスピン方式(*3)だったが、BSには我が国としては初めての三軸姿勢制御方式(*4)の衛星が採用されることとなった。
                    (参考資料:テレビジョン学会誌1979/10)

     (*3)茶筒のような形をした衛星で“茶筒”の表面に太陽電池が貼り付けてある。
     (*4)箱形の構体から太陽電池パネルを突き出したスタイルの衛星で大きな電力が得られるのが特徴。                 

     このプロジェクトはGEとの共同作業で、フィラデルフィア郊外にあるGEの工場に多数の東芝技術者(ピーク時には40人以上)を長期間派遣した。一時はGEの設計オフィスのどこに行っても東芝の人間の顔が見えたものである。人選は技術的バックグラウンドを重視して行われたために初めての海外出張でいきなり長期駐在となる人間も多数いて、立ち上がりの苦労は相当なものだったと思われる。しかし最初はコミュニケーションの問題などあったものの次第に実力が認められて、東芝技術者の評価は全般的に高かった。
     当時はまだメールもFAXも無い時代、連絡は専らテレックスが使われた。約半日の時差が結構役に立ち、夕方こちらからテレックスを打つと翌朝向こうから返事が来る(勿論逆もある)スタイルで、共同作業は結構スムースに行った。
     この時体験したGE流プロジェクト管理のやり方は新鮮且つ大変有益なものであった。一例を挙げると、毎朝9時プロマネ以下キイメンバーがコントロールルームと呼ばれる部屋に集まり30分程度Stand-up meetingを開く(サブシステム別に曜日が決まっていた)。担当毎の進行状況、問題点を洗い出して大きな紙に書き出し、責任者を決めて解決予定日を記入する。この部屋は周囲の壁面がフスマのような形式で何層にも工程表が記入できるようになっていて、専任のスタッフが工程表の修正・管理を行っていた。

     衛星の開発は非常に複雑なステップを踏んで行われたが、簡略化すると
    次の3段階に分けることができる(時間軸的に分かれているわけではないが)。

    (1)予備的調査~コンポーネントの開発~EM:Engineering Modelの製造、試験
    衛星全体の開発に先立って(東芝/GEに決定する前から)幅広い分野に亘る予備的調査・検討~主要コンポーネントの開発、更にEMの製造・試験がかなり長期間に亘って行われた。また、衛星の構造設計を確認するためのSDM:Structure Development Modelも製造され、試験が行われた。

    (2)PFM:ProtoFlight modelの製造、試験
    本来はPM:Prototype Modelであるが、認定試験の後一部改修されてFMの予備機となったためにPFMと呼ばれた。EM、SDMの評価結果を反映した設計により製造され、認定試験が行われた。
     当然のことながら衛星は一旦打ち上げられると修理することができないので非常に高い信頼性が要求される。宇宙空間での環境条件は真空、温度、放射線、など大変厳しい。が、その前にロケットでの打ち上げ環境に耐えなければならない。これは、振動、衝撃、音響、など猛烈である。従って、これらを総合した環境条件下でミッションが達成できることを証明しなければならない。認定試験は衛星がロケットで打ち上げられる際、及び軌道上で遭遇すると予想される環境条件よりやや厳しい条件(これは極めて過酷な条件である)で行われ、PFMが宇宙環境に耐え得ることが確認された。
     PFMはこの後一部改修が施されFMの予備機としてGE工場内に保管されたが、後に宇宙開発事業団筑波宇宙センターへ納入された。

    (3)FM:Flight Modelの製造、試験
    FM:Flight ModelはPFMよりやや遅れて製造され、受け入れ試験など一連の試験で宇宙環境に耐え得ることが確認され、一旦GE工場で保管された。その後1978/2中旬にケープカナベラルのNASA東部射場に搬入され、打ち上げ準備に入った。

    (以下「放送衛星の黎明期(下)」に続く)
    (この原稿をまとめるに当たり、元東芝GE駐在所長大武逞伯氏のサポートを得たことを付記し、謝意を表する)

    1件のコメント »
    1. 先進的な全社的横断プロジェクトの苦労は身につまされます。最初の経験は国内初のデジタル交換機の同期装置を担当しましたが、本業もやりながらで、伝送グループでは裏切り者とまで言われました。その後、衛星通信のプロジェクトでは地上局の伝送端局を担当しましたが、本業をやりながらの駆り出し部隊で大変でした。光通信では、5年間ラインを外され、部下無で他人の部下の協力でプロジェクトを纏めさせられ、ようやく軌道に乗ってから開発本部が出来ました。それにしても
      テレックスとは懐かしい思い出が沢山あります。ローマ字は読み難く、英語の方が楽でした。テレックスのお陰で、私の報告書は「てにをは」が無いと言われましたが、早く用件を処理するにはこれに限ると思います。続編を早く掲載して下さい。

      コメント by 大橋康隆 — 2009年3月16日 @ 07:34

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