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  • 四苦八苦の技術屋英語 (上)/寺山進@クラス1955

    始めに
     我々は元々英語に馴染み深い世代ではない。


    昭和7年生まれは、戦争中の旧制中学を知る最後の年次である。昭和20年4月に入学し8月に終戦となった。私は小田原中学で、相模湾が敵の上陸候補地だった為、陣地構築の勤労奉仕に明け暮れた。但し、誤解している人も多いようだが戦争中でも英語の授業は続いていた。もっこ担ぎの合間に二三度英語の時間も有った筈だが、何を習ったのか全く覚えていない。
     終戦後もしばらくは教科書すら無かった。秋頃になって「次代の青少年の為に、大人は二三日間新聞を我慢しよう」と政府が声明を出した。新聞の休刊日を設け、小中学生向けの教科書を全新聞社の輪転機で刷って配布してくれた。大きな新聞紙を指定どおりに切ったり折ったりすると、薄っぺらな教科書になる。それでも私にとっては、生まれて初めて見る英語の文章だった。小さな新聞の活字体に目を近づけて、食い入るように眺めたのを覚えている。しかし、三省堂のコンサイス英和辞典が書店に出回るのは更に一年以上後になる。今と違って教材など一切ない時代である。ろくろく英語の勉強などしてこなかった。会社に入るまで、外人と話をした事など全く無いのである。つまり生の英語を聞いていない。洋画は見た筈だが、英語を聞くと云う意識は全くなかった。それが、輸出比率の高い、しかも電気屋の大学卒の少ない会社に入ってしまったのである。どうしても英語からは逃れられない羽目になってしまった。

    第一部 Non-native編
     世界各国の人の英語に出くわした。当然英語のNative-speakerではない人が多い。北欧、南欧、インド、中近東、東南アジア、・・・「本当にこれが英語なの?」と思う事も多かった。尤も、向こうもそう思ったかも知れない。私は、自分が英語に上達したとか慣れたとか云う積りは全く無い。しかし少なくとも、どんな英語に出会っても驚かないようにはなった。専門用語を並べてでも、何とか意志疎通を図るようにした。

     「言葉など分からなくても、人間同士分かり合える」遊び半分のテレビの旅番組などで、ノーテンキな芸能人が言っている分にはお笑いですむが、技術仕様の打ち合わせではそうはいかない。「最後は筆談で何とかなる」と云う事も良く話題には出るが、事はそう一筋縄でいくものでもない。第一、書いて貰ったアルファベットが中々読めない。特に中近東の人には苦労する。元々右から左への横書きのアラビア文字を左手で書く人が多い。その左手で英語を書くから、正にミミズののた打ち回った字になってしまい、到底読めた代物ではない。
     
     COというスペルの確認をする時、私が古い営業の先輩に習った戦前の商社流で、China Osakaとやったら「それ何だ?」と聞かれた。大体日本の都市で有名なのは東京位で、大阪なんか知らない人の方が多い。「お前はどう云うのか」と尋ねたら、Charlie Oscarと答えられて、今度は私の方が慌てた。「何だ、それは?」その時私は、こちらの方が通話表の国際標準だと云う事を知らなかったのである。最近は電話の品質も桁違いに良くなっているので、通話表など不必要になっているのだろうが、面と向かっての対談で役に立つ事もある。

     ある国の人に、「英語が嫌いだから技術屋になる日本人も多いのだ」と何気なく口にしたら、「自分の国では英語が出来ないと技術者にはなれない。専門書は勿論、大学の教科書でも全部英語だ」と急にしんみり云われたので恐縮した事がある。「英語が出来なくても物理の勉強は出来る」と云って、ノ-ベル賞をお取りになった益川敏英先生も、恵まれた日本に生まれた事は感謝しなければならないだろう。
                                                            平成二十一年二月二十日

    2 Comments »
    1. 同じ時代を過ごした者は同じ様な経験をするものだと大いに共感しました。学生時代は英語が嫌いではなかったので、実力不足を認識する機会は無かった。しかしながら、入社して見ると、当初の2年間は外国技術の導入時代だった。我々新人は多忙な最中に、外国文献やマニュアルの翻訳を割り当てられて残業が一段と増加した。1957年の夏に同じ課の2年先輩の杉崎真先輩が、フルブライトで留学された。旧制を出た人は実力が違うと大いに刺戟を受けたが、初めて自分は会話が出来ない事に気がついた。杉崎先輩が帰国されて、私も会話を習得するため、四谷の日米会話学院の夜間に行こうと決心した。当時、上司の許可は得られなかったが、勝手に行くことにして、授業終了後は再び会社へ帰って残業した。米国人の先生から「君は何年英語を習ったのか」と言われたが、「翻訳や英作文は習ったが会話は全く無い」と答えたので先生も「悪いことを尋ねた」と言われた。初級、中級、上級と1年半かけて卒業し、フルブライト試験に合格した。
      1961年8月エール大学で1ケ月間35ケ国45名の外国人留学生と研修を受けてからハーバード大学に行った。研修は非常に有益で多くの国々の人達と友人になったが、彼らは英語が出来なくても高等教育を受けられる事が理解できなかった。日本は本当に有難い国であると思った。

      コメント by 大橋康隆 — 2009年3月2日 @ 08:14

    2.  大橋兄の共感を頂いて恐縮です。あの頃フルブライトに合格するとは大したもので、小生とはレベルが違い過ぎます。
       下巻を読まれるのが恥ずかしい位です。

      コメント by 寺山 進 — 2009年3月8日 @ 04:46

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