年寄りの自慢話にはうんざり?/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2008年度, class1955, 消息)
いつの時代にも、年寄りの自慢話は若者に嫌われているようです。僕も若い時は、正直のところ、大先輩の貴重な経験談を上の空で聞いていました。
しかし、最近のように、団塊世代の大量退職や若者の理工離れなどで、技術の伝承が難しくなると、先輩が後輩に自分の経験を語ることも必要ではないと思うようになりました。これも歳のせいでしょうか。しかし、本人の思い込みとは裏腹に、めったにそんな機会に恵まれないのが現実です。
ところが、昨年、有難いことに、長年務めた会社の後輩から、昔の話をして下さいと声が掛かりました。大いに気をよくして、勇んで出かけたのですが、話をしたあとで不安になって、思いました。「あの当時は、頑張りさえすれば、誰だってあの程度のことはできた。今の若者だって、ああなれば、やるだろう」と。しかし、今は技術を取巻く環境も様変わりしているし、我々がやり残した松の根っこの燃え残りみたいな難問と、新しい時代が生み出したひねくれた問題に、現役の連中は悩んでいる。とすると、老人の苦労話なんて彼らの役に立つのだろうかと。
そこで、ふと思い出したのは、学生時代に覚えた「真理は常に条件付きである」とか、「真理を無限に延長すれば、必ず誤謬に至る」という言葉でした。どんなに貴重な体験談も、その時代の制約とか、あるいは、幸運な環境の下で成就した話ですから、条件を語らなければ意味はない。「真理」という主語を「過去の成功体験」で置き換えてみると納得です。その時代の特殊な条件を超えて、普遍的な教訓として昇華された話だけが若者の心を掴むことができるのだろうと、まあ、こんな風に思ったのです。
ところで、この言葉は、駒場か本郷で、熱心な左翼の級友が教えてくれたのだと思います。もしかすると、毛沢東の言葉ではないかと思うのですが、誰か出典を知りませんか。
(2008年8月27日)
2008年9月15日 記>級会消息