佐々木元さんを偲んで/江村克己
本同窓会の理事長も務められた佐々木元さんが2022年6月21日にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
佐々木さんは、私にとって年次が21年上の大先輩にあたりますが、幸いなことに会社や本同窓会など様々な機会に佐々木さんと接点を持たせていただきました。ここでは、佐々木さんから受けた様々な薫陶を振り返りながらその業績を振り返り、追悼の辞を述べさせていただきます。
佐々木さんは、1959年に電気工学科を卒業したのち、数物系研究科修士課程を経て、日本電気株式会社(NEC)に入社されました。学生時代から半導体の将来を感じられてのNEC入社でしたが、入社当初は伝送通信事業部で仕事をされました。当時NECの屋台骨を支えていた伝送通信事業に関わられたことが、視野を広め、その後の事業運営に役立ったことがご本人の回顧録から感じられます。常にソフトウエアの重要性を訴えられ、装置を支えることを意識しながら半導体事業を進められたことなどからもそのことがうかがえます。
半導体事業に移られた後は、超LSI開発本部長、マイクロコンピュータ技術本部長などを歴任された後、常務取締役、専務取締役、代表取締役副社長としてNECの半導体事業を牽引されました。この間にNECの半導体事業はグローバル展開を進め、世界ナンバーワンとなりました。その後、日米半導体摩擦が起こり、シリコンサイクルなどもあって難しい事業運営に取り組まれることになります。日米半導体協定の交渉やインテル、MIPSなどとのライセンス交渉にも先頭に立って対応されたこともあり、NECの半導体事業は佐々木さんが事業の担当役員を務められていた1995年にピークを迎えています。
1999年には代表取締役会長に就かれました。佐々木さんは“社長の後方支援という立場で会社への貢献をするタイプの会長であった”と自ら回顧されていますが、NECの事業が厳しい時期に10年間にわたり会長を務められたのは、常に大所高所からものごとを俯瞰し、活動されたからこそではないかと思います。佐々木さんが常々、“事業に限らず何事も人の半歩先を行くのが肝要である”とおっしゃっていたことが印象深く思い出されます。データを重視され、社外での講演などでは、データを基に話の骨子を作られ、そこにご自身の考えを加えて全体を構成されてお話をされていたのが印象に残っています。
佐々木さんはその大柄な体躯と柔和な面持ちからくる剛毅木訥な印象に違わず、常に長期視点と広い視野を持ちながら、常に新しい取り組みを牽引されました。以下に私が関係し、影響を受けたいくつかの事例を紹介します。
私はNECで研究開発とそのマネジメントに携わってきました。私が入社した当初は、半導体の研究も中央研究所の中で行われていました。半導体の研究は設備に大きく依存します。また、研究室で実現出来たものも量産現場では同様の成果を出せないということも起こりました。そこで考え出されたのがR&D&Pです。製造現場に隣接して研究所を設置、許容できる範囲では製造装置も活用して研究開発を行うという考え方です。この考えに基づき、シリコン、化合物半導体それぞれについて現場と一体となった研究開発が進められるようになりました。この動きを事業側で推進されたのが佐々木さんでした。これにより研究と事業の距離が大幅に縮まりました。研究成果をダイレクトに事業化につなげることができるという意味で、当時の研究者にとって大変インパクトのある施策になりました。
佐々木さんが会長時代に意識されたことのひとつが、“NECが世界の市場から尊敬されるに値する企業として復活するまで、外部の活動に注力することだった”と語られています。その範囲は、政府関係の委員、経団連や経済同友会をはじめとする財界での活動、技術やイノベーションに関連する団体や学会活動と多岐にわたります。代表的な学会活動のひとつに、情報処理学会の第24代会長があります。私は6代後に会長を拝命することになりました。その際、佐々木さんの学会会長としての発言等を参考にさせていただきました。佐々木さんは、自ら“情報処理は馴染みの薄い分野”としがらも、産業という立場から情報処理を考え、貢献すると述べられ、活動されました。会長就任にあたっての挨拶では、データを引用しながら社会情勢を分析し、イノベーションの重要性とICT技術の果たすべき役割に触れ、その中で学会が果たすべきことについて考えを述べられています。その内容は、ともすると技術起点の議論になりがちな学会にとって重要な問題提起となっています。佐々木さんは学会に外部の視点を入れるためのアドバイザリーボードを設置されました。私が会長を務めた際にも、アドバイザリーボードからは大所高所からの意見と学会を良くするためのヒントを数多くいただくことが出来、佐々木さんの施策の恩恵に大いに浴することとなりました。
佐々木さんは本同窓会の理事長を2007年から2009年の間、務められています。私はちょうどそのタイミングで企画理事を務めました。当時の資料をみると、同窓会の活性化が議論されており、そのための施策として、ホームページのリニューアル、名簿システムの電子化、会費納入のオンライン化が進められています。総会をホームカミングデーに合わせて行うようになったのもこのタイミングです。電気系の人気が下がっていた時期でもあり、同窓会としての発信の強化を行うことが必須でした。デジタル化に活路を見出し、同窓会の転換を進められた時の理事長が佐々木さんということになります。今でこそデジタル化による変革は当たり前の感がありますが、時期を考えると、この取り組みは大変先駆的であったと言えます。これも“変革の起こるところに佐々木さんあり”の例かと思います。
佐々木さんの半導体への思いは最後まで変わらず、日本の現状に懸念を持たれながらも、“日本がこの領域での優位性を保つ努力は続けて欲しい”と回顧録で述べられています。また2010年、日経新聞の夕刊コラム“こころの玉手箱”に執筆された際には、第2次世界大戦中にビザ発給で多くのユダヤ人を救った杉原千畝氏を引いて、“若い人たちには、杉原氏のように自分で判断し大胆に実行に移せる強い気概を持ってほしいと願っている”と書かれています。
AIや量子技術の進展にともない、半導体の重要性が再認識され、いろいろな施策が検討されています。半導体を単にデバイス技術と捉えることなく、これからの世の中を変革する重要な要素であると捉え、その技術開発、さらにはその活用による社会変革に多方面から強い意志を持って取り組むことが重要で、そこにチャレンジするのが私たちの役割と認識しています。改めて佐々木さんのこれまでのご貢献といただいたご指導に感謝し、謹んでご冥福をお祈りいたします。
江村さんの心のこもった追悼文に感激しています。わたくしはソニーの半導体の責任者をしていた縁でずいぶんとお世話になりました。特に日米半導体協定がその年の8月31日に期限を迎えることになっていた春に、ハワイで両国の産業界の主なメンバーを集めた会議があり、佐々木さんが日本側の議長を務められました。JEITAの会長を務めていたソニーの大賀社長も自ら出席する意向で、赤いキャデラックで乗り付けました。そして開口一番、米国側の急先鋒のLSIロジックのコリガンさんをにらみつけて、ソニーが大量のLSIを同社から購入していることをまくしたてるように言いました。コリガンはその後全く発言がありませんでした。
基本的な方向の合意はあったものの、交渉は最後の8月31日に及び、大賀さんに代わり日立の牧本さんが尽力され、8月31日の25時に合意に至ったものでした。NECの半導体事業はソニーもモデルとしていろいろと学ばせていただいたのも今となってはよい思い出です。半導体産業の再興を期待しています。
コメント by 渡邉誠一 — 2022年10月3日 @ 17:19