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  • 温故知新か - 振り返れば迷いの森/齋藤正男

    1960年ごろからMEの世界は嵐に揺さぶられた。私は学部時代にラグビー部に所属し、駄目選手だったが心身ともに鍛えられた。特に「相手と正面から対決する」ことを教えられ、それでよいのだと思っていた。

    藤崎博也先輩の米国留学行きを横浜の大岸壁から材木を打ち振って見送り、しばらくすると猪瀬先生からペンシルバニア大行きを勧められた。思いがけないことだったが、多分コンピュータの関係だろうと思い、少し勉強して行った。黎明期のコンピュータは跡形もなかったが、膨大な開発記録から先人の苦労を知った。また最初の商用機、ユニバックIを運転する機会もあった。

    この年ペン大が生体工学研究の拠点校に指定され、私はそちらに参加することになった。指導者は生体電磁気学を専門とし、頭脳鋭く(また頑固さでも)有名なシュワン教授で、基礎研究が楽しかったが、海軍や民間から安全性や基礎データの依頼があり、割り込みの仕事も面白かった。一応の成果を学会で発表し、氷川丸最後の航海で帰国した。

    帰るとME国際学会結成の計画が進んでいた。震源地はテレビ撮像管で有名なツウォリキン博士で、阪本先生とも親交があり、私も引き込まれた。1961年にニューヨークで学術会議と学会結成が予定され、日本からは阪本先生、樫田良精(東大中検所長)先生、旅行中や滞在中の方々にもお願いし、尾佐竹 徇先生、宮川 洋先生も参加された。私はペン大での研究を招待講演にしていただいた。

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    立川から出入国したときの旅券

    先生方は旅費の工面をされていたが、私は一文なしなので主催者側にお願いすると、あちらでも苦心されて、准尉待遇で太平洋往復の軍用機の切符をいただいた。立川からミッドウェイ、ヒッカムなどの基地を経て西海岸に着き、よく故障するバスで4日間かけて大陸を横断したが、なけなしの外貨で飲まず食わず、現地に着いて先輩から借金して救われた。私と似た苦労をした先生が講演中にばったり倒れる事故もあったが、私は体を鍛えたお蔭で無事だった。

    学会結成の準備会議は毎日夕刻から深夜まで開かれ、阪本、樫田、宮川、齋藤で参加した。学会の在り方については欧米各国に事情や思想の違いがあり、熱心に議論されたが、日本は特に争うこともなく時差呆けもあって、なんとなく調整役をするうちに議論の中心に置かれた。次の国際会議を2年後に日本でという希望が多かったが、阪本先生は国内学会がない状態では無理だと主張され、オランダ代表が次回を引き受けてくれた。会議後、折角の機会なので、日本のリーダー達は東部の主要な研究機関を訪問した。各地のME研究状況を承知しているのは私だけなので、幼稚園の遠足のように連絡をとり引率して回った。まだ暗中模索状態にあった日本のリーダー達に大きな影響を与えたと思う。通訳か旅行社のような仕事をするうちに、欧米のリーダー達は私を日本の情報センターと思ったらしく、その誤解が後日問題を起こした。

    帰国すると、国内学会の結成、オランダの次の国際大会の開催という宿題に加えて、国立ME研究所の提案、大学内の横断的連絡組織やME研究施設の構築などに忙殺された。研究施設は、さまざまな学部との連携構想の後に医学部との協力に戻り、現在の医学部3号館の建物図面を関係者と描いた。まもなく施設は設立された。

    東京での1965年国際会議が無事に終わり、阪本先生が国際学会の会長に就任された。それは喜ばしいことだが、世界的には調整すべき問題が多く残されていた。そして私には深刻な問題が起きた。私が日本の情報センターか学会事務局のように誤解され、連絡調整や会合の世話を依頼する大量の文書が既に私宛に来ていた。当面の手紙への返事だけで郵送費が10万円近くになったことからも、その凄まじさが理解できると思う。一人で処理できる量ではないし、日本にいるかぎり逃げられない。

    「これでは殺されてしまう」。「逃げない主義」の破綻である。本当に申し訳ないが日本から逃げ出すことにした。ちょうどブルックリン工大から回路システム論の若手研究者が欲しいとの話があったので、自分で行くことにし、なんとか教室の皆様の了解をいただいた。池田謙一先生に阪本先生と組んでいただいた。

    短い期間だったが、回路システム論を楽しんだ。先方の仕事にも加わり業績が挙がったが、美しい理論を楽しむだけでは空しい気もした。帰国後回路論の実際応用をいくつか発表したが、「経験だけでよい製品ができる。基本理論など要らない」と言われた。いまはどうだろうか。ブルックリン工大にも生体電磁気学の研究グループがあり、研究の先輩としてアドバイスを求められ、MEから逃げられないと感じた。この分野へ工学者の参加が増え、医学と工学の考え方に不調和音を感じたが、部外者のつもりで口を出さなかった。

    帰国してMEの世界に戻ると、産業は発展期にあり、現実的な問題も多く、楽しかった。ME研究施設では後回しにされながらようやく工学部門ができ、私が初代の教授になったが、私の任務はMEを学術的、社会的に認知してもらうことであった。学内、学外での認知を得るために少数のスタッフでまさに悪戦苦闘、30以上のJIS委員長を務め、行政や民間の研究開発委員会の多くを主宰した。また境界領域として多種多様な大学院学生の教育に関わり、10種類近くの学位を認定した。

    あれこれと奮闘するうちに、国際学会の役員改選時に英国学会から私を国際学会の副会長候補に推薦したとの連絡があった。これも逃げた方がよい。40歳そこそこでトップに入れば、国内から「なんであいつが」と思われる。私は下りて、代わりに国内の長老を候補に立てた。しかし作戦は失敗で彼は落選し、その反動で私がその場で平理事に選ばれた。そしてその後の人事異動で結局は副会長に移り、以来会長職を含め20年近く国際学会の運用に努めることになった。国内外で多忙な日々が続いた。

    WHOなど国際機関との連携、医用物理学との調整などもあったが、境界領域の活動は難しい。当時はどの国も未成熟で、技師会、工業会、貴族的、政府直結、理工と医の対立など、国情に沿って発展を促すしかなかったが、日本はその中で模範とされアドバイスを求められた。欧米、アフリカは他の役員に分担を頼み、私は中近東、共産圏、アジア諸国の活動立ち上げに努力した。共産圏諸国はそれぞれ独自の道を持っていたが、アジア諸国は、国民性、経済、教育が違い、混乱も多く、訪問して実情に基づいたアドバイスをする必要があった。我が国からは見当外れで無駄遣いの支援が行われていたので、学会からガイドラインを出したが、予算を獲得し消費するだけの人が多く、効果がなかったようだ。

    アジアで苦労したのは中国と台湾である。当時は双方から国際学会に加盟してもらう「二つの中国」体制は無理であった。台湾が先に加盟したが、本土には統一などなく、一地方一学会の状況であった。調整のために各地を訪問したが、列車や飛行機の切符が取れないのは日常的、駅前に寝て警察に怪しまれ、逆に貴賓車の「紅旗」に迎えられ、省長の宴席に招かれるなど苦労があった。やがて本土も台湾との学術的関係の様式が整い、MEも全国規模の大会が開催されて、国際学会への加盟が実現した。苦労のお蔭で酒にも強くなり、中国に強力な学者人脈ができた。

    50歳を越してようやくMEの世界に戻った。高齢社会が目の前に来ていたが、皆が道具作りに専念するだけで、基礎固めに関心がなかった。しかし書斎の学者が高齢者の身体特性や心理についての定性的知識を振り回すだけでは、器具作りの基盤にならない。そのことを強く主張し、国レベルで地味な実際的なデータ作りを何年か続けてもらい、価値ある成果を得た。しかしその間、短絡的に物を作るだけの構想を掲げた人々が、予算を求めて割り込むのに悩まされた。いま再び医療福祉技術の開発が計画されているが、経験浅く熱心な人達の授業料に終わらないことを願う。

    定年が近づいてようやく若いころの回路システム論を楽しむ時間ができた。なんという空白か。物理的受動システムは、代数学に限らず多面的に美しい数学的表現を見せる。昔はやる気充分の弟子達が、分布系や多次元の理論を提出してくれた。そこには必ず間違いがあり、それを見つけるのは大変だったが楽しかった。私自身もいくつかの未解決の問題に関心がある。しかしいまさらながら取り組んでみると、楽しいには違いないが、もともと駄目だった頭がさらに衰えていることを思い知らされる。意気盛んだった弟子達も初老の域に入り、もう結果を見せてくれない。

    MEの世界から医師、患者、ハイテクの三つ巴の中にどっぷりと浸かった。そこではハイテクの参入によって便利になるというより、人間が変ることを感じた。そして広く世の中を見渡すと、人々が機械流の短絡的思考に染まっていくことを知った。考えがまとまらぬままに警報のつもりで何冊か出版した。斜めにでも御覧いただければ幸甚である。

    慌ただしかったが、私もこの後しばらくは平和で楽しい人生のようだ。貴重な体験に満ちた過去だったが、「逃げない」主義は破綻を繰り返して怪しげな道を辿った。温故知新と言いながら、振り返ればまさに迷いの森の獣道である。御参考にならず申しわけない。

    (東京大学名誉教授 クラス1956)

    1件のコメント »
    1. 感想文
                            2015年11月8日

      齋藤正男先生の「温故知新か-振り返れば迷いの森」を拝読して
                           上野照剛(東京大学名誉教授)
      東京大学医学部医用電子研究施設基礎工学部門初代教授を務められ、ME国際学会IFMBEの会長を歴任され、この分野の指導的立場で、世界のME研究を牽引してこられた齋藤正男先生の随想を拝読して深く感動しました。
      猪瀬博先生の御推挙でペンシルバニア大学に留学され、生体膜の電気特性の研究で有名なシュワン教授のもとで研鑽を積まれ、氷川丸で帰国されたこと、ME国際学会の立ち上げから多くの御尽力をされて、今日のME国際学会隆盛の基を築かれたこと、アジア諸国、とりわけ、中国、台湾のME国際学会への参入に御苦労されたこと、国内にあっては、MEの学術的・社会的な認知度の向上のため、JISの委員長をはじめ、行政・民間の各種の研究開発委員会を主宰され、少数のスタッフと共に悪戦苦闘されたこと、高齢者社会に向けての高齢者支援機器開発の国レベルでの地道な取り組みをされておられること、等々、どの部分をとっても、大変なことで、深く感銘を覚えました。
      この間、齋藤先生が本来御研究をされたい回路システム論をブルックリン工科大学で楽しまれ、御定年が近づくころ、また、やっと若いころの回路システム論を楽しむ時間ができたことなど、研究者は本来、研究することは呼吸することと同じではないかと思いました。これからの先生のゆっくりした静かな時間空間で本来のご研究を楽しまれますことを願っています。
      また、齋藤正男先生が国内外、アジアでは、とりわけ、中国・台湾・韓国に蒔かれた研究の種が大きく花開き、国際的な文化の交流と平和の構築に貢献しているものと思います。

      Comment by 上野照剛 — 2015年11月8日 @ 16:34

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