創る幸せ/藤田博之
私の家に、鶴を描いた大きな皿がある。40cmほどの厚手の瀬戸焼でやや茶色味をおびた透明の釉がかかり、そこに白と黒で巣ごもりの鶴が描いてある。実は母方の祖父が焼いた皿で、亡くなった両親を通じて今は私が使っている。祖父は、日本画の職業画家であったと聞かされているが、戦争中は絵では生計が立たず、日常使いの陶器を焼いて売っていたとのことだ。そのお余りが娘の家に回って来たということらしく、別に高価なものでもないが、祖父をしのびながら大切に使っている。折々にこれを見て思うのは「自分しかできないものを創り出し、それを子孫まで伝えていけるとは、芸術家は幸せだな」ということだ。巨匠や大家でなくても、様々の芸術家の作品が、いろいろなところで愛好されているだろう。
芸術ばかりでなく自然科学の世界でも、たとえばピタゴラスの定理やニュートンの万有引力といった、昔の人の創造した数学の定理や物理の法則などが伝えられて、活用されている。我々の分野である工学においても、ワットの蒸気機関やライト兄弟の飛行機など、新たな時代を拓いた創造物はだれもが知っている。このように、科学技術における創造性の大切さは、言うまでもなく皆のみとめるところである。
さて技術の現状に目を向けてみると、私だけの感想かもしれないが、なかなか難しい状況にあるように思う。様々な新技術が産み出されているけれども、それは一瞬にして賞味し尽くされ、後世の孫やひ孫が感心してくれるまで生き残ることは期待できそうにもない。近頃の技術が急速に陳腐化するのは、技術革新の速度の増加ばかりが原因ではないだろう。より大画面で高精細のTVを作るとか、携帯電話と携帯情報機器を軽く小型にしてその扱う内容を進歩させるとか、便利さと性能を向上した製品を次々と提供していくといったレベルの、短期的な目的に資することばかりが強調されるためである。元々の射程が短ければ、長期的なインパクトは望むべくもない。
長い射程で優れた的を射るためには、余裕を持って腰を据えた準備が必要である。目標の設定、それにいたる手段と技術課題の同定などを、大きな構想の中に位置づけて考えなければいけない。たとえば、電気系の大多数の教員が参加し、「セキュア・ライフ・エレクトロニクス」というプロジェクト(文部科学省グローバルCOEに選定された)を、学科を挙げて推進している。このプロジェクトでは、単に物質的に豊かな社会を目指すのではなく、そこで生活する人が楽しく幸せに生きるために、健康で安心して暮らせる社会の構築に貢献するエレクトロニクス技術を創り出そうとしている。
更に進んで、人々を幸せにする道となると簡単な答えはない。この文章の趣旨に添って言えば「創造的生活に幸せを見いだす」のが、一つの方向であると思う。幸いにして大学の研究者は、研究テーマの選択にも大きな自由度があり、短期的な目標に縛られない大きな発想で研究を進めることができる。創造的で挑戦的なテーマを設定し、研究室の学生、研究員、教員などが一丸となって創造的生活を送ることが可能である。また、巷のはやりにボーカロイドというものがあると聞く。一種のシンセサイザーであるが、うまく設定することで人間の歌声をだせるため、素人の作詞・作曲家が自分で書いた曲を歌わせてネットに投稿できる。歌は下手な人でも作詞・作曲に才能があれば、それを皆に楽しんでもらえる仕組みである。多くの人の創造性を引き出し、幸せをもたらす技術革新である。このように、文化をささえる工学、文化としての工学を追究する道も、今後検討する価値があると思う。
(藤田 博之:生産技術研究所電気工学専攻・教授)