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  • 近頃思うこと(その32)/沢辺栄一@クラス1955

      毎年5月の連休、秋の文化の日の前後に褒章並びに叙勲のニュースが報じられる。褒章については、それぞれ褒章を受けた人に対して、いつもその業績、行動に感心している。一方、叙勲については国や社会等公共のために顕著に働いた人への勲章の授与ということで国の叙勲の行為については必要なことと思っている。

      しかし、叙勲における勲章の種類と授与された人の職業を見ると、私の偏見かも知れないが、職業に格差をつけているのではないかといつも感じている。人間の社会において全ての人が各人のできる分野でそれぞれ分担し、その貢献によって、社会全体がスムーズに機能している。政治家は病人の診療は出来ず、医者が病人を治療することが出来る。普通の大学教授が蒔絵を創造することは難しい。政治家はおおむね大綬章を授与されているが、社会全体として公的な貢献の程度は医者の貢献に比べて高いとは思えない。受賞の職業的格差を示す具体的な解り易い例として教育者について示すと、特別な学長を除いて大学教授は一般的には重光章か中綬章、高校の先生は小綬章、中学や小学校の先生は双光章と決まっている。私の偏見かも知れないが、最も人間に影響を与えるのは大学の先生より小学校の先生であると思う。小学校の先生の発言によって如何に多くの少年が立派な大人に育って行くことか。人間の成長への影響は小学校の先生より母親の方が大きいが、母親が受賞されたことを耳にしない。芸術家は文化勲章を受章しない限り、いくら優れた作品を創造しても小綬章である。この様に現在の叙勲制度は職業によって受章する勲章が決まっている。
      人間の能力、性格は同じではないから、それぞれの活動分野で平均的なレベルに対して飛びぬけて成果を挙げる人が居り、それらの人には何らかの判る形で顕彰する必要がある。上でも記した様に全人間社会システムの中でそれぞれの分野での各人の分担活動によって社会全体がスムーズに動いているのであるから、顕彰の方法として或る特定の職業を他の職業と区別することでなく、平等に同じ価値、重さの顕彰授与を行うことが良いのではないかと感じている。天皇も現在の大綬章の授与のみ手渡すのではなく、数千人に及ぶ受章者全員に手渡すことが望ましいのではないかと思うが、数千人に手渡すことは実際には困難であると思うが、それに代わる方法はあると思う。
      昔、叙勲には勲一等、勲二等と数字が入っていたが、早稲田大学の電気工学の某教授が数字を無くせと提案されていたが、数字が無くなっても格差の思想は変わらずに今日に至っており、提案された某教授も中綬章を授与されたことを記憶している。恐らく政治家からは選挙で選ばれただけなのに自分たちの偉さを示す手段として、官僚に圧力を掛け何らかの格差を付けろと要求があったのではないかと推察するが、現在の議員たちが行っていることを観れば政治家を優遇する必要は全く無いと思う。
      公のために功績の有った人を顕彰する叙勲制度は必要ではあると思うが、全て同じ叙勲に改革すべきであると思っているのは私だけではないのではないだろうか。
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