• 最近の記事

  • Multi-Language

  • リトアニア史余談75:カウナスの城/武田充司@クラス1955

      リトアニア第2の都市カウナスは日本では「六千人の命のビザ」で知られる杉原千畝によって有名になったが、ネリス川がネムナス川に合流する地点に発達したこの都市は首都ヴィルニュスを防衛する最重要拠点として多くの過酷な戦いの歴史を刻んできた。

      東の高台にある杉原記念館から見ると市街地を挟んで丁度正反対の西の端に旧市街がある。この旧市街は北のネリス川と南のネムナス川に囲まれて西に突き出した刃物のような三角形の土地の先端にあり、その北東側にカウナスの城跡がある。それはバルト海からネムナス川を遡って来て、ここでネリス川に入り、ヴィルニュスに向かおうする船を睨むようにネリス川に向かって築かれていた。
      1361年、プロシャのドイツ騎士団総長ヴィンリッヒ・フォン・クニプローデは石と煉瓦で築かれた堅固なカウナスの城を攻略する準備として、カウナスの城に関する情報を精力的に収集した(*1)。そして、その翌年、ヴィンリッヒ・フォン・クニプローデ率いるドイツ騎士団の大船団がネムナス川を遡ってカウナスに姿を現した。
      前年の周到な情報収集によって得ていたデータをもとに、彼らは先ず外側の堅固な城壁の一部を破壊して取り除くと(*2)、そこから現地で組み立てた木造の巨大な装甲櫓(*3)を城壁内に押し込んで、櫓の上から城内に火矢を放って総攻撃を開始した。城内からは火の手が上がり激しい戦いが続いたが、3週間の攻防ののち、城はついに陥落した。
      このとき、ドイツ騎士団は鉛の弾丸を発射する小型の火砲を使ったと記録されているが、それは殆ど役に立たなかったという。しかし、この頃より、火薬を使った大小の火砲がドイツ騎士団によって使用され始めた(*4)。
      カウナスの城に立て籠もっていた約400人の守備隊のうち生き残った者は、指揮官のヴァイドタスのほか、わずか36人であったという(*5)。そして、この年の復活祭の日にドイツ騎士団は戦勝記念のミサを行った(*6)。1362年のこの戦いは、14世紀におけるリトアニアに対するドイツ騎士団の最も重要な、そして、最大の勝利であったとされている。
      しかし、カウナスの要塞を破壊し勝利したドイツ騎士団も、この地に長く留まり軍事拠点を構築することはできなかった。カウナスは首都ヴィルニュスを守る要衝であったから、遠からずリトアニアの本格的な反撃にあうことは必然であった。こうした状況下で、ドイツ騎士団が長過ぎる補給路を使ってカウナスを確保することは無理だった。
      ドイツ騎士団が引き揚げて行くと、ケストゥティスは直ちに城の再建をはじめた。しかし、ドイツ騎士団も翌年再び姿を現し、再建途上の城を破壊して行った。そして、このとき以来、カウナスは度々両軍衝突の場となり、しばしばドイツ騎士団に占領された(*7)。
    〔蛇足〕
    (*1)ドイツ騎士団総長ヴィンリッヒ・フォン・クニプローデ(Winrich von Kniprode:在位1352年~1382年)はネムナス川の下流にある拠点ラグニット(Ragnit)の司令官に命じて、カウナス城の外側の城壁の厚さや高さなどを綿密に調べさせた。歴史上の文献にカウナス城の記述が現れたのはこれが最初である。なお、ラグニット(Ragnit)は、リトアニアではラガイネ(Ragain$0117)と呼ばれ、現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州のネムナス川南岸の都市ネマン(Neman)の前身である。
    (*2)このとき、ドイツ騎士団は火薬を使って城壁を破壊したという。現代の「発破」技術の原始的な手法であったのかも知れない。
    (*3)当時、このような櫓(やぐら)を組んで、城壁越しに城内を攻撃する戦法はよく用いられたが、それは城壁を壊さずに、城壁の外側からの攻撃だった。この場合、それとは少し違う戦法になっているが、当時のカウナス城の城壁は高さ11メートル余で、壁体の上部には屋根付きの回廊がめぐらされていて、そこから城壁に近付いてくる敵を攻撃できるようになっていたため、従来型の攻撃が困難だったのかも知れない。
    (*4)このあと間もなく、ドイツ騎士団はポーランドのヴィスワ河畔の要塞やリトアニアのネムナス川下流の拠点ラグニット(Ragnit:前出)の城に火薬を使った大砲を配備した。また、1380年代には可搬式の砲も戦場で使用されるようになったが、火砲の技術は幼稚で、引き金付の強力なクロスボウ(弩)が依然として重宝された。
    (*5)ドイツ騎士団総長ヴィンリッヒ・フォン・クニプローデは、カウナスの城を守っていた指揮官はケストゥティス(K$0119stutis)だと思っていたのだが、実際はケストゥティスの長男ヴァイドタス(Vaidotas)であった。ケストゥティスは1361年に兄アルギルダスと共にプロシャに攻め入り、ドイツ騎士団に捕えられたが、脱獄して戻ってきた。捕虜として屈辱をうけたケストゥティスはドイツ騎士団に対して直ちに報復攻撃を仕掛けたが、ドイツ騎士団はそれに反撃して1362年春カウナスの城を包囲し、ケストゥティスを再度捕虜にしようとしたのだった。
    (*6)この年のイースターは4月16日であった。
    (*7)15世紀になると、ドイツ騎士団はカウナスまで攻め込むことができなくなった。そして、16世紀にはカウナス城は砲台を備えた要塞化工事がなされたが、17世紀初頭(1611年)に城はネリス川の洪水によって損傷した。さらに、17世紀中葉にも洪水に見舞われて城の大部分が流失した。したがって、現在は昔の城の一部分のみが残っている。
    (番外)「余談74」で述べた「シニ・ヴォディ川の戦い」は1362年(あるいは1363年)にあったとされているから、それは、このカウナス城の攻防があった年かその翌年である。カウナスで大損害をうけた直後に、リトアニア軍がキエフの彼方まで遠征したこと自体が不思議だが、その上、強力なキプチャク汗国のタタール軍と戦って勝利したことは驚くべきことである。当時のリトアニアは、ゲディミナス大公の2人の傑出した息子、アルギルダス(Algirdas)とケストゥティス(K$0119stutis)の2頭体制であったが、彼ら兄弟は何処の王家にもある相続争いという権力闘争で潰し合うことをせず、互いによく協力し、役割を分担してリトアニアのために戦った。首都ヴィルニュスを本拠地とした兄アルギルダスが東方拡大政策に奔走し、ルーシ諸公の地に遠征するとき、旧都トラカイに本拠地を置いた弟ケストゥティスは、リトアニアの背後を脅かすドイツ騎士団の侵略に対して果敢に戦い本土を守っていた。この兄弟のこのような連携が、ゲディミナス大公の築いたリトアニアをさらに発展させ、東欧における中世の大国にしたのであろう。
    (2018年4月 記)
    4 Comments »
    1.  武田兄の薫陶を受け、私もバルト3国ツアーに参加して、2013年6月28日にカウナス城を訪れました。クラスブログ2013-08-16「リトアニアの旅(その2)」の(写真8)にカウナス城を掲載しました。今から考えると、自分の前立腺肥大の大きさを知っていたら、多分ツアーには参加していなかったと思います。翌年のバルカン6ケ国ツアー参加が最後の海外旅行になりました。知らぬが仏だとつくづく思います。

      コメント by 大橋康隆 — 2018年4月16日 @ 16:49

    2. 人数の上からは弱小民族であるバルト人が、主として14世紀に大国にのし上がったことを不思議に思っています。理由は何とお考えでしょうか。1つ2つ挙げるとすると何があるでしょうか。1)政略結婚も含め、政治力が群を抜いていた、2)モンゴルによりルーシ諸国が疲弊していた、3)モンゴルからあぶれた連中を庇護下に起き、強力な戦闘集団として使った、4)ユダヤの経済援助があった、等々・・・

      コメント by 甲東 — 2018年5月4日 @ 14:43

    3.  既に衰退していたキエフ・ルーシがモンゴルの侵攻によって崩壊したことが一つの大きな要因かと思われます。もともと東方志向の強いバルト族にとって、キエフ・ルーシの崩壊によってこの地域に力の空白ができたことは幸いしたと思います。それと同時に、その時期に、アウクシュタイティアのバルト諸部族が統一され、国家形成に向かったという時期的な一致も見逃せない要因でしょう。実際、1240年12月にキエフが陥落していますが、リトアニアでは、1236年9月に「サウレの戦い」の勝利があり、1253年7月にリトアニアを統一したミンダウガスが戴冠しています。

      コメント by 武田充司 — 2018年5月7日 @ 11:16

    4. ありがとうございます。リトアニア大公国は大国だった、という言い方に根拠無く首をひねっています。ただ戦争に強かっただけではないかと。14世紀のエジプトにはマムルーク朝という大国がありました。歴代の親分は奴隷(マムルーク)あがりです。第11代の親分はモンゴル人。テュルク系、コーカサス系の親分が多かったようです。ジェノヴァ、ユダヤ商人が調達していたそうです。リトアニアは東欧のマムルーク朝もどきではないだろうか。親分はリトアニア人でしょうが。リプカ・タタール人という集団がいたのは確かなようです。

      コメント by 甲東 — 2018年5月7日 @ 18:42

    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。