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  • 映画鑑賞初体験/大橋康隆@クラス1955

     寺山兄の「オリンピックの辰年―その5」への斉藤さんのコメントを拝見して、1940年の頃を思い出しました。私も寺山兄と同じく小学校2年生でした。


    この年に、私の記憶に残る最初の映画「無法松の一生」と「お夏清十郎」を小学校で観たのです。
     無声映画でしたが、担任のH先生が声優を務められ、「無法松の一生」は子供なりに興味深く観ました。ところが「お夏清十郎」はさっぱり判らず、着物を着た女性がシャナリ、シャナリと出てきて、口をパクパクするのですが、H先生のセリフが追い付かず、一向に同期が取れません。「先生!早く、早く」と心の中で叫びました。この時が、後に大学時代に下宿で同室の大西君の薫陶を受けて、映画にのめり込む発端になるとは夢想だにしませんでした。この年は皇紀2600年で、巷では祝賀の歌が流行していました。一方で不謹慎な替え歌も覚えています。(金鵄上がって15銭、栄えあるひかり30銭、それより高い鳳翼は、甘くて辛くて50銭、ああ一億のカネは減る)
     H先生は1年生、2年生と連続して担任で、私の一生に多大な影響を与えた最初の先生であった。一年生の時、生まれて初めての試験で、「ン」から始まる単語を書けと最後の問題で出題された。「○ンコ」と書いたが、「ン」ではない。消しゴムで消して「○ンテンシュ」と書いたが、これも「ン」ではないと慌てて消した時に終了の鐘が鳴った。この時初めて色々と脳味噌を使った。母からは性根を入れて先生の言われることを聴いていれば、何も心配することはないと教えられていた。性根の入れ方が足りないと思い、以後はよく解らないことは徹底的に先生に質問することにした。
     3年生の時に「杉野兵曹長の妻」という映画を、引率されて映画館で観たが、トーキーであり、かなりよく理解できた。軍神広瀬中佐が旅順港で「杉野はいずこ」と叫ぶシーンは有名であるが、杉野兵曹長の奥さんは辛かったであろうと、子供心に同情した。この年の12月8日に日本は太平洋戦争に突入した。
     5年生になると、「加藤隼戦闘隊」や「九軍神」を観た。「九軍神」を観た時、特殊潜航艇には2人づつ乗るのに何故9人なのか疑問に思ったが、作文には書く勇気はなかった。しかし、観察力の鋭い同級生がいた。軍神の一人が、出陣前、故郷に帰り墓参した際、7つボタンの一つが外れていて不謹慎であると作文に書いた。驚いた先生が、確認の為もう一度映画を見に行ったが、その通りであった。このことは山陽新聞に報道された。さぞかし出演俳優や映画監督は、憲兵隊で油を搾られたと思う。6年生になると「ガダルカナル」を観たが、凄惨な場面が多くて、なんとなく形勢が不利であることが感じられ、前線の兵隊さん達の苦闘が偲ばれた。中学に入学して間もなく、6月29 日に岡山も空襲で焼野原となり、8月15日には焼け跡の運動場で雑音交じりの玉音放送を聴くことになった。

     私の記憶にはないが、母は昔よく私を連れて映画館に行っていたようだ。ある日スクリーンに魚が現れた時、私が興奮して「タイタイ!」と叫んだので周囲の人達に睨まれ、慌てて外に連れ出したそうだ。(写真)
     母は大正生まれで、若い頃は恵まれた生活をしていたらしい。父が早く亡くなったので、中年になってから上京して10年間働く羽目になった。
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    2才位の頃

    成績不良で上司に注意されても、その時は神妙に頭を下げていたようだが、帰宅するとケロッとして「時代が悪いのだ。」とうそぶいて、翌日は元気よく出勤していた。「働くのは私の趣味ではないからね。」と言って退職してからは、テレビで昔の映画をよく観ていた。「望郷」などは観るたびに涙を流していたが、若い頃を思い出していたらしい。昔観た映画は何時までも心に残るものである。

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