おめでたい略歴/曽根 悟
区>会員, 記>寄稿 (class1962, 叙勲, 鉄道)
曽根 悟名誉教授より平成30年秋の叙勲に際して、ご略歴とその関連コメントを投稿していただきました。(事務局)
##関連記事「秋の叙勲:曽根悟名誉教授」
1939. 4.23 小田急本社前近くの
東京鉄道病院で出生(注1)
叔父曽根 幸[みゆき]が鉄道省の技師だったことと、叔父も父 有[たもつ]も小田急沿線に居住していたので、この病院が選ばれたようだ。小田急の車内で母に抱かれて”あなたはここで産まれたのよ”と言われたところが南新宿の踏切だったので、”ボクはこの踏切で産まれた”と思いこんでいた。
1957. 5.30 国鉄技研による「東京-大阪3時間への可能性」
[銀座山葉ホール]講演会に出席(注2)
高校3年の受験生だったが、当然のように受験勉強よりもこちらを優先して参加した。この講演で一番内容が判らなかったのが、後にいろいろ教えを請うことにもなった河辺 一博士のATCの話だったので、進学先は土木でも機械でもない電気にした。
1957. 7. 6 小田急SE車営業運転開始(注3)
1957年には小田急のSE車も完成し、これが国鉄線で狭軌鉄道での速度世界記録を出すなど日本の鉄道界にとって画期的な年であり、ここから新幹線の開発が目に見える形でスタートした。
1957. 8.15 国鉄大糸線が全通(注4)
実は受験勉強の合間には注目していた国鉄新線が開通し受験直後に乗りに行く計画も立てていた。
1957. 9.27 小田急SE車国鉄東海道線で狭軌鉄道の
世界記録145km/h 達成(注3)
1958. 4. 1 東京大学に入学[理科I類]
1960. 4. 1 電気工学科に進学(注2)
1961. 7. ? 就職面接で阪本 捷房先生からの勧めで
国鉄を断念し大学院に進学した(注5)
卒業後は国鉄に就職するつもりだったが、就職担当だった阪本教授[実は鉄道サイバネティクス協議会の生みの親]から意外にも”国鉄では鉄道技術の研究も開発もできないから”という理由で止められ、大学院に進学して山村 昌教授の研究室に入った。国鉄末期には労使・労労関係や財政面で破綻を来していたことは広く知られているが、技術面での停滞も感じて、若輩者には無謀とも思われる委員会を作って[大島 恵一委員長/茅 陽一副委員長などの大物を立てて]将来に備えることにした。特別にご参加いただいた人たちの中には、島 秀雄、日野原 保、尾関 雅則、丸山 弘志、岩橋 洋一、須田 寛氏等の有力者も数多く含まれていた。報告書が出た1980年時点では見向きもされなかったが、国鉄分割・民営化が避けられないと決まった直後には在庫がなくなるほどの人気になった。
1962. 3.28 電気工学科卒業 卒業論文は「交流電車線の
吸上変圧器セクションの消弧対策」(注2)
1964.10. 1 新幹線開業
1966. 3.28 博士課程修了 工学博士
博士論文は「脈流電動機とその回路の研究」(注2)
1978-1980 軽快電車の開発に従事 日本鉄道技術協会(注6)
このような新しいシステムの開発にも参加することができ、前項(注5)とともに、当時は必ずしも十分には納得していなかった阪本先生の適切なご指導に改めて感謝することになった。
1978-1981 日本鉄道技術協会
鉄道技術体系検討委員会に主体的に関与(注5)
1984-1987 リニア地下鉄の開発に従事
運輸省・日本地下鉄協会 開発経済分野の責任者(注6)
1988-1990 東海道新幹線300系車両の電気システム開発に従事(注6)
1988-2001 運輸省運輸政策審議会に関与
1989-1997 東日本旅客鉄道 鉄道安全研究推進委員会委員
1990-2001 運輸省運輸技術審議会に関与
1992-1995 電気学会 交通・電気鉄道技術委員会 委員長
1997-2005 国土交通省超電導磁気浮上式鉄道
実用技術評価委員会に関与(注6)
2000. 3.31 東京大学退官
2000. 4. 1 工学院大学教授 電気鉄道研究室を設立/復活(注7)
定年退官後にお世話になっている工学院大学にはかつて、山下 善太郎教授、竹内 五一教授のような電気鉄道分野での有名教授の研究室もあり、私学では日本大学と並んで鉄道分野での著名大学でもあった。
2005-2013 西日本旅客鉄道 社外取締役
2007. 3.31 工学院大学教授退任
2007. 4. 1 工学院大学で社会人教育「鉄道講座」等の企画・監修を担当
2007-2012 北京交通大学 客座教授
2013. 6. 7 日本鉄道技術協会 功績賞
2018.11. 3 叙勲 瑞寶中綬章(注8)
大学における鉄道関係の研究による叙勲は例が少ないと思われる。