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米寿を迎えた会員もいるクラス会 /錦織 孜

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出席者:乾、片岡、工藤、倉持、高砂、塚本、
中川、中西、錦織、濱崎、物井夫妻、八鍬
 

 5月に入り寒暖差が大きかった天気も、卒業64年のクラス会当日の5月25日(水)は、薄日のさす暑くない程よい天候で恒例会場の代々木クラブは居心地の良いところであった。定刻12時にはに12名の会員とご夫人1名が集まった。出席予定の三谷君が見えないので中西幹事が家に連絡したところ、前夜 心臓発作で急逝されたとご家族からの知らせがあった。予想もしなかった友の急死に皆ショックを受けた。2月には新井君が亡くなられたとの幹事報告の後、皆で黙とうをささげ、お二人のご冥福を祈った。 (続きを見る)


  工藤幹事の音頭で、出席者の健康を祝った。

しばらくみんなで歓談した後、各自の近況報告がなされた。
 憲法第九条を守る会で活動している人、五街道を制覇し、更に鎌倉街道を歩き続ける人、喉の手術後回復を見てゴルフを再開し元気なスコアをキープしている人、毎日の買い物とホームセンターで材料を探してあちこち家の改修・修理を楽しむ人、大学の客員研究員となってパソコンと格闘している人、退院後も頑張って100歳まで生きようと意気盛んな人はどなど。80代後半の人生を前向きにとらえているものが多い。出席メンバーには、満88歳が二人、数え年で88歳は私以外にもおる一方、来年の誕生日を迎えてもまだ満86歳(旧制中学4年終了で旧制高校1年で新制大学入学)も少なくとも二人手が上がった。全員が米寿を迎え終わるのは再来年以降のようだ。
 3月10日の東京大空襲で10万人以上の犠牲者がでたが、4月に昭和天皇が視察をされた際、穴を掘って犠牲者を埋め、目に触れないようにした。もし天皇の目に入っていたなら戦争は原爆前に終わっていただろうと話が進んだ。まさに私たち年代は長くて暗い戦争時代を過ごしてきたことを改めて思い出した。



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 さて、年代特有な病気の話もあった。  
 医者の誤診かどうか不明だが、肺に影があるといわれたが、今は消えてなくなっている。似たことは私も経験した。15個も切除した後にできた大腸ポリープが翌年消えてなくなっていた。救急車に乗った経験者が数人いた。歩行中に全く意識がなくなり(救急車に乗せられ)病院で気が付いた話。大学病院のセカンドオピニオンで頻尿薬の副作用がなくなり、関係がないと思っていた目の色彩感覚がわずかではあるが復活した話。その他(自分の記録が読めないので割愛)
 出席者X生存年数 に相当した体験談はクラス会出席の効果と考えられる。また年齢を超えた気力を浴びることで活力が生まれる。

 3年前 富士山を愛でるクラス会で三谷夫人と会ったのが最後で、今年は会えると期待していたのにあえなくて残念だと物井夫人は寂しそうであった。今年はいつも出席の工藤夫人、佐々木夫人の姿がないのは寂しい。 IMG_9799juyuu72.jpg
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  中西幹事から来年は卒業65周年になるが、旅行とかなにかイベントを行うかどうか の相談がなされた。いろいろ案はあったが結論としては、来年もここ代々木クラブで集まることとなった。各人の言葉を添えた写真集をだして出席できなかった方へも消息を知らせることができるよう配慮する案もでた。
 来年のクラス会は5月22日(火)12時からと決まった。
 午後2時解散。一部喫茶室で懇談が続いた。

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クラス会

80代後半でも元気なクラス会 / 錦織 孜

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出席者:乾、工藤夫妻、倉持、佐々木、瀬田、
塚本、中川、中西、錦織、濱崎、三谷、八鍬
  
   
例年よりひと月遅く、6月21日(火)正午から恒例のクラス会が始まった。集まった時は生憎の梅雨空であったがクラス会の盛り上がりに合わせて天気が回復し晴れた日差しが注ぐようになった。
工藤代表幹事の開会の挨拶で乾杯、次いで中西幹事から以下の報告がなされた。

「今年の春のクラス会は、都合により当初の予定を変更して本日開催となりました。体調を崩されたかたも見えて、例年より参加者が少なかったですが、会員12名、ご婦人1名、計13名のご出席をいただきました。みな、80代半ばになりましたが、年齢に負けないで、高齢を元気で生きられるよう、心身の健康に勤めましょう。今日はゆっくりご歓談くださいますよう。
なお、西村敏充君がさる5月6日逝去されました。西村君は宇宙科学の分野で活躍され、大きな足跡を残されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。」(配布資料より転記)

今年のクラス会は例年と比較し五つの点で違いがみられた。第一は、ご婦人が4-5名から紅一点となったこと。素敵なボーイフレンドたちを独り占めできたと嬉しそうであったので安心した。第二は少人数のため声が届きやすかったのか全体で話し合う時間が多かったこと。第三はお医者知らずのT君が手術入院で初めての欠席、ただし退院後のゴルフ場の予約はもうなされているとか、流石である。第四は長年の腰痛が消えた人が3人もいたこと。第五は、パソコンのOSが勝手にWindows10にアップグレードしてしまい、復旧もエラーで中断し大事なファイルが使えなくなった話、翻訳ソフトの訳文がとんでもない出来で意味が全く通じないなど、わがクラス会でパソコンが話題になったのは初めてのことである。
80歳を超した頃より、自動車の免許証を返したという報告がぽつりぽつりあったが、今回は全自動ではないけれど、事故防止新機能を備えた車を購入、またはハイブリッドでない電気自動車に切り替え、さらに水素燃料自動車の購入を考えているとか、老いたることを排除する気力の持ち主の比率が上がったようだ。

それぞれの報告についてはメモが取れない目となったことで記録が全く読めず割愛します。
来年のクラス会は5月25日、ここ代々木クラブで開催と決定した。



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クラス会

80台前半のお元気クラス会 / 錦織 孜

 昨年秋の「世界遺産富士山を楽しむクラス会」は紅葉の時期で天気にも恵まれて大きな富士山と一緒で印象深いものでした。あれから半年、緑の公園近くの代々木倶楽部で楽しいクラス会が開かれた。恒例に従って5月28日(木)の日である(昭和28年卒による)。題名の「80台前半のお元気クラス会」はクラス公認名称ではなく、筆者が会の雰囲気に感じて勝手につけた名前である。お許しをこう。
工藤幹事長の音頭で皆の健康を祝し乾杯。中西幹事からの報告では、会員14名と夫人3名で合計17名の出席であるが、濱崎君と物井夫人も出席予定であったがやむを得ない都合で欠席された。また昨年の秋の旅行では仁科君が脳梗塞で急きょ欠席されたが、幸いにしてよくなら、奥様の付き添いで出席された。                                                                                          

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出席者
 乾、片岡、工藤夫妻、倉持、
佐々木夫妻、高砂、塚本、
中川 、中西、錦織、仁科夫妻、
三谷、物井、八鍬  計17名
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出席会員は85歳かその前であり、なかには大きな病気を患ったけれご、それぞれ一番良い治療法にたどり着き、今は何ともないものも多いものも何人かいる。ともかくこんないい体験談や精神の持ち方の話は、聞くだけで寿命が5年も10年も伸びる気になる。気持ちが滅入るようなことはない。お元気クラス会と題名に書いた理由である。私の記憶に残った数例をあげておこう。

★ お医者知らずで、できるだけ歩きに徹している。万歩計の集計から毎年1600km、東京経由で日立・鹿児島間を毎年歩いている。

★ 一万人に一人と言われる難病を克服し、今まで夫婦で五街道を歩きとおした。

★ 「元気に百歳」クラブ会長も務め、会社OBにパソコンを教え、今もコーラスをやり、これからベートーベンの第九に挑戦する。

★ 大腸がんの手術後、患者の会で学んだり話したりしている。再来年モンブラン登頂を計画し、特訓中。医者、現地ガイドがついて4人編成で10組いる。高齢者登山ということでインタビューをうけた。

★ 何にもしないことに決めた。元気な友の話で元気がもらえるから楽しい。

★ 趣味のサークルでよいお医者とアドバイザーに会い、二つの病気を克服できた。

★ 昨年本の出版、これからは鉄道事故について技術より、経営管理の面から研究をしてみる。

★ 某大学でこれから3年だけ客員研究員となった。

★ 自分よりもっと不自由な人がいるのだから決して自分が不幸だと考えない。

★ 老老介護では絶対に腹を立てないことが肝要。

★ このクラス会は3名になるまで続くだろう。

次回は来年の5月27日(金)に代々木倶楽部にて開催が決定した。(28日は予約満席のため)

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クラス会

富士山を楽しむクラス会(2)/ 錦織 孜

花の都公園-忍野八海-御師の家-北口本宮富士浅間神社-新宿

花の都公園
 ホテルを13時20分過ぎに出発し、紅葉を眺めながら花の都公園に13時40分ごろ到着。広々とした畑の花は終わってしまっている。ガスガイドさんは温室の花は有料で見られるが下りて見ますかと問いかける。入り口まで行ってみることになった。入り口で18名でも団体料金にしてくれたので、全員入園し温室の花を見、数名は片岡君の案内で溶岩形型の見学に行った。高砂君が溶岩樹型の話を皆に説明してくれた。

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 まずは行ってみよう 
 どうしよう 入る?
 花の都 公園風景 
 IMG_6528kaku.jpg  IMG_6563momiji.jpg  IMG_6578kurekaku.jpg 
 ストレプトカーパス サクソルム     
       イワタバコ科
  もみじ  さよなら また会おうね 


忍野八海
 富士山の地下水が湧く忍野八海に向かう。14時50分ごろ到着。時間がないので湧水を一つだけ見たら帰ってくるようにとガイドさんは注意する。できるだけ歩く距離を短くするためにバスはお店近くの広場に入る。追加料金をお店から取りに来た。外人が増えマナーや習慣の違いでいろいろ問題のようだ。お店の横を抜けて少し行くと水車があり、そして湧池にでる。ここはこんこんと澄んだ水が湧いている。休み明けでも人では多い。近くに並んだ二つの池を見て急いでバスに戻る。15時過ぎにはもう出発。富士を見る余裕はなかった。

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  忍野八海入口    水車小屋       湧池の映え 
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 時刻はほぼ15時ごろ。秋とも
なればもう夕日ような光を帯び
てくる。

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御師の居宅(小佐野家
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IMG_6611kaku.jpg どうして御師(オシ)というの? ガイドさんの疑問だった。一緒に行って聞いてきたらしい もともとは「御祈祷師」だったが祈祷が抜けて御師となったとか。
現代風に言えば 富士講のガイドさん。
 世界遺産に指定されてから外人観光客が増えた。富士山5合目ではバス10打尾のうち8台が外人用だとガイドさんはいう。御師を訪ねるのも外人が多いとか。
 時刻は15時半。夕日の気配が強まってきた。



北口本宮浅間神社

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大鳥居から隋神門、奥に一郎杉樹齢千年の一郎杉  拝殿から神楽殿をみる 

 16時過ぎに北口本宮富士浅間神社に到着。参道は時間の都合で避け、少し暗くなった小道を通って大鳥居前に出る。随神門を通り神楽殿を回って、主祭神の木花開耶姫命を祭る本殿がある。本殿・幣殿・拝殿がつながった権現つくりである。
樹齢千年の太朗杉の前で、中川君から樹液はどうして10m以上上がることができるのかとみんなに問う。
 ここで片岡夫妻、佐々木夫妻と別れの挨拶を交わし、バスで新宿に向けて出発。
 途中交通渋滞があったが、約20分遅れで18時50分に出発地の工学院大学前に到着した。出発から10時間10分、内容たっぷりな日帰り旅行であった。片岡君、幹事の皆さんに厚くお礼申し上げます。
 また、参加者全員が元気で何事もなかったことを喜びたい。来年春のクラス会を楽しみにしています。(完)

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クラス会

富士山を楽しむクラス会(1)/ 錦織 孜



 「世界遺産富士山を楽しむクラス会」は10月27日(月)山中湖のホテルマウント富士で開催された。18名が参加。新宿からバス旅行の形態をとったので紀行文風に紹介する。(寫眞はクリックして拡大、もう1度クリックすればさらに拡大します)

新宿-山中湖  IMG_6289blg.jpg    
 10月27日朝8時40分、10分遅れでバスは新宿を出発。、途中藤野で塚本君をピックアップ。。初めは雲に隠れていた富士山だったが笠雲姿で現れ、今日一日楽しませてくれそうである。薄野越しに富士山を眺めながら山中湖へと向かう。中西幹事から22名の参加予定が体調その他の理由で4名減り18名の参加となった。また現地には片岡、佐々木両夫妻が宿泊されておりバス搭乗者は14名であると報告があった。40席の大型バスで2席を一人で座っても余りがあり、ゆったりと快適である。途中バスガイドのM嬢がところどころその地にまつわる故事を特徴的な語り口で説明してくれる。山中湖に近づき標高が上がると薄に替って紅葉が目立ってくる。

                
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    山中湖畔から左へ曲がり、紅葉の森の急坂を通って上った先が、今日の会食を行うホテル・マウント富士で、眼下には紅葉の森が広がり、目を左に回すと冠雪の富士が見える。暫く片岡君のマンションに行く小型バスを待つ。前泊の佐々木夫妻と片岡夫妻-に会う。夜はライトアップした紅葉があり、朝は赤富士が楽しめたそうだ。ホテルのホームページには冬のダイヤモンド富士も紹介されている。



IMG_6369tckk.jpg  片岡邸-長池親水公園IMG_6401kata.jpg
 今回の「世界遺産を楽しむクラス会」を提案したのは片岡君で、幹事会で図って今年の春実施予定であった。雨が降り続き、予定日の天候が心配されたので秋に延期となった。冠雪の富士、紅葉の景色など春にはなかったものが増えた。春と違ったスケジュールに組み替えられ、業者折衝など片岡君にはずいぶんお世話になった。
 彼のマンションは南に展望が開け紅葉の森の先、真正面に富士が見える素晴らしい場所にある。彼の美術愛好心を存分に満たす部屋の装飾は、世界を旅した思いのコレクションンでもあろう。富士山の伏流水を各自賞味した。いいおもてなしであった。
 ベランダで各夫婦の記念撮影をしてくれた。左の写真はここで撮ったものであるが、登山三昧のわが友に見てもらったら剣ヶ峰に通ずる富士山最古の道が写っているというのである。ネットで調べたら「村山古道」らしい。
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IMG_6426sinsui.jpg 片岡邸から小型バスで湖畔に下り、長池親水公園で記念撮影をする
 湖面に波がなければ鏡にしたような逆さ富士が見られるだろう。

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参加者全員記念写真よりコピー 

  IMG_6464sp.jpgホテルマウント富士
     (昼食、クラス会)IMG_6459ksku.jpg

 12時20分ごろ、全員そろって食卓に座る。3つのテーブルの一つは奥様方だけ、残り2つには男性が適宜座った。
IMG_6469bookclpck.jpg中西幹事から卒業61年目のクラス会の開催宣言。今回は片岡君の提案と諸準備がなされたこと、天候が一番気になったことなど話された。食事時間は1時間しかなく、定例の各自挨拶はなしとした。片岡君からサプライズなことがあると、今日は塚本君の誕生日であるのでクラスでお祝いしてあげようと、お祝い品を塚本君に贈呈した。贈られた品物はブッククロックで、葛飾北斎の富嶽36景の一つ「凱風快晴」をあしらったもので、富士山を楽しむクラス会としてはピッタリなものであった。これこそ私のサプライズ! 
 会食後 中西幹事からの来年は「春にクラス会を開く」件が了承された。
 参加者:片岡夫妻、工藤夫妻、倉持、佐々木夫妻、高砂、塚本、中川、中西夫妻、錦織、三谷夫妻、物井夫妻、八鍬(18名)
(続く)

花の都公園-忍野八海-御師の家-北口本宮富士浅間神社-新宿 は(2)に掲載します
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健康

視力障害に挑戦 (1)ー自作読書器ー / 錦織 孜

 両眼とも加齢黄斑変性症だと宣告されて12年になる。初期発見で先端治療を受け続けてきたが、次第に悪化してきた。今左眼は0.04、右眼は0.1の視力となった。新聞、雑誌、書籍などまとまった記事が読めなくなって2年を越した。
 不自由ではあるがいろいろ工夫することでなんとか楽しく暮らすことができた。あまり参考にはならないだろうが紹介してみよう。

「拡大読書器の自作」
 先日家電量販店のビデオコーナーで何気なくカメラに 手を伸ばした。レンズに相当近づいても拡大された手がはっきり見える。カタログの小さな文字をレンズに向けて映し出してみた。自動的に焦点が合って読めるのではないか。
 

 今年初めからコンパクトカメラ、一眼レフを使って読書器が作れないものかといろいろ試してきた。書類を撮影し、カードにに録画したデータをパソコンに送ってソフトで見ることはできるが、読めるまでに、カメラの位置、ズームの度合いなどの調整を何回も繰り返す必要があった。リアルタイムに設定してみることができなかった。Webカメラならリアルタイムに見ることができるソフトがついている。購入して試したが、画像が暗くて、相当明るい補助光が必要であった。解像度が低く周りの景色を見るには良いが、文字をきちんと判別して読める状態ではなかった。
(以下すべての画像をクリックして拡大できます)


購入した ビデオカメラはワイド側でF1.8と明るく普通の明るさの状態でも使える。三脚は資料台の横に置くため、斜め下方向にレンズが向く。そのため書類の左側と右側の映り具合がやや異なるが、使用は可能である。横から写して上下方向を保つように画面を寫せるようにカメラを雲台に設定する必要がある。カメラの向き、高さ、ズームの度合いを総合的に調整する必要がある。三脚ではカメラ、パソコンの調整にルーペが必要で、腰痛持ちの自分にはきつい作業であった。ディスプレイは書 斎で使用している古いテレビを兼用した。
FBIMG_7812kakudaiSet.jpg 試作1号器と 現用の
ルーペおよび、携帯用読書器
知人から接写用小型三脚のアイデアをもらい、ネットで探し四国のメーカーから購入した。伸縮可能で上下左右に角度を変えることができアーム先に雲台がある。資料台のほとんどの位置で同じ高さでカメラを垂直に保つことができる。三脚は強力両面テープで固定できた。使い勝手の良い拡大読書器ができた。携帯用読書器では手書きがうまくいかず悩んでいたが、この読書器では小さな字でも手書きができた。
制作費用は一般製品の4分の一以下ですんだ。
 この新作の読書器でゆっくりと本を読みたいと思っているが、今は2,3ページで完結するマニュアルの一つの章が限界である。裸眼もしくは老眼鏡でさっと読めるようなレベルではないので、つい改良・調整の方にのめりこんでしまう。何のために作ったのか。目的は読書なのに、使って便利だと思える方向に時間を割いているようだ。これも自分の性なのかと思う日々である。(未完)
 
IMG_8331Fb.jpg 改良器
接写用三脚を使用
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健康

視力障害に挑戦(2) ーどう見えるー / 錦織 孜<br />

「加齢黄斑変性症になるとどう見える(再現実験)」

 インターネットで紹介されている黄斑部の断面図や見え方のサンプルをみて、人それぞれ違うのだと思う。したがってここで示す寫眞は私が見えている状態を寫眞加工用ソフト(Photoshop CS5)を使って再現したものである。明暗は記憶に頼って調整できるが、色調は色そのものが正常時代と違ったようなので、とんでもない色で再現されているかもしれない。悪しからず。
 最初は白紙に印刷された文章 次に、明るい場所、暗い場所、について紹介しよう。
以下すべての写真はクリックすると拡大できます。

「文字」
 
新聞や書籍のように白紙に印刷された文字は、読もうと思って見つめると、そこが丸く光って中にあった文字は光の中に溶け込んだように消えていく。 周りに文字があるのだが、そのままではなんという字か認識できない。読もうと思って目を向けると消えていく。 
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  ルーぺやパソコン画面上で見えなくなった場所の文字を拡大していくと、約1cm角に大きくすると光っていた場所にぱっと文字が浮かんできて読むことができる。っしたがって10年位前は1.7倍程度の一般に市販されているルーペんで問題なかった。しかし黄斑部に液体の滲出がひどくなったり、出血した後は、レンズの倍率が高いもの(3.5倍以内)でLED付けで明るく照らさないと読めなくなってきた。  IMG_8339kakudai.jpg 
  暗いバック地に白文字の場合は光ることがないので、テレビでは、表示されているチャネル番号、時刻、字幕などは何とか読むことができる。

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「明るい場所での見え方」

 順光の場合
9月下旬、萩の花、彼岸花を求めて北鎌倉を訪れた。どちらもお目にかかれなかったが、秋を満喫した。毎年10月か11月訪れて紅葉を愛でているところだ。カメラがとらえたままの画像を右に示す。残念ながらわが目はこのようには見えない。右下の寫眞のようにくすぶったものになる。  IMG_5709org.jpg 
 色あせたセピアの世界にも慣れた。明るいところはギラギラと白く光り、シャドウ部は真っ暗、中間部といわれる部分も真っ黒で、全体的に焦点が甘く、白っぽい霧がかかる。時々印象派のさる著名な画家を思いながら見ることにしている。
 道で誰か知っている人とすれ違っても、顔が見えなくて知人だと気が付かない。誰かと判別するには1m以内に近づかないとわからない。
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逆光の世界
加齢黄斑変性症が進んでから、逆光の世界が楽しくなった。色づいた葉っぱを通り抜けた光、水面での光の演出 が美しい。右は普通の寫眞。 IMG_5705org2.jpg 
黄金色に輝く逆光の世界。特に加齢黄斑変性症になって2,3年前から強烈に感ずるようになった。

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「暗い場所での見え方」

  美術館、博物館は部屋が暗くしてあるので、展示物も、説明書きも見えない。高い金を払って何も見られなかったことが何回もあった。最近は妻だけ入って私は外で庭を散歩することに決めた。
 夕方少しだけ暗くなったとき、外へ出ると真っ暗で懐中電灯がないと歩くことができない。普通の人なら道路が見えるはずである。テレビ画面で木陰で光が少ない場面と、暗いけど白い服装で明暗がはっきりした画面を再現してみよう。


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 普通の人なら外の森の中でも十分に人の顔が認識できる。 
左と同じ条件だが、加齢黄斑変性症のものにとっては、暗闇で人物が殆ど見えない。

   
 IMG_8092org.JPG  IMG_8143amdFB.JPG
 暗いバックだが白い部分が際立って明るく十分文字内容もわかるだろう。  加齢黄斑変性症の人にとって像がぼやけ少し文字が読みにくい。

 上記の実験は、ソフトを使って光の状況を変化させ、自分が見えている状態と同じと思われる状況が再現できたなら、可逆的に考えて正常に見えるような電子的な」フィルターが得られるのではないか。病んだ目を通して入った情報は多くの情報失ったものなので復元はできない。しかしカメラの生情報なら十分な情報を持っているはずで、目で弱くなる情報を増幅することで復元できるという仮説をしばらく信じて余生を楽しく過ごすことにしよう。

(未完)
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視力障害に挑戦(3) / 錦織 孜


「パソコンと光るキーボード」
  パソコンとはもう20年以上の付き合いである。自分で取ったメモが読めないほど字が下手だった悩みはほぼ解消した。目が悪くなって読むことにも苦労するようになると、パソコンに読み込んで拡大して読むのが当たり前となった。
パソコンのディスプレイは20インチ以上で高コントラストに設定できるものを選んだ。キーボード上の文字がはっきり見えないようになってから光るラベルをキーに貼り付けて位置が分かるよう工夫した。IMG_8141kbd.jpg目が悪くなってからインプットミスや誤変換が増してきた。修正のために「デリートキー」と「バックスペースキー」の使用が当然増える。キー上の文字が良く見えなくでも、寫眞で右から4つ目の1段目と2段目のキーが金色に光っているがこれが「Del]{BS]キーである。句読点を表す金色マーク、「長音ー」と「括弧()」は数字のセロの右左にあるので{0}を光らしている。その他矢印キー、カタカナ変換キーなど自分流に光るマークを付けて、目を余り使わずに入力できるようにしている。このヒントはネット検索で、加齢黄斑変性症で悩む方が家の中の電気のスイッチに白いテープを貼ったと書いていたのを見て思いついたものである。


  
「小型望遠鏡、ルーペ、コンパクトカメラ」
 日頃携帯していないと困るもの3点が上記のものである。
 バス停で、来たバスの行先・経路がわからないことがある。今日も失敗した。時間通りに来たバス、行先も確かめたバスなのに、経路の違ったバスだった。仕方なく終点まで乗って、電車で目的地へ行った。IMG_6027FB.jpgIMG_6055FB.jpg
外で見えなくて困るもの:近づいてくる自動車、横断歩道の信号、バスの路線番号と行先表示、駅のホーム案内、ビルの名前、、・・・・こんな時には小型の望遠鏡か双眼鏡が助けになる。倍率よりも広視野で近距離で焦点を素早く合わせられるもので接眼部が大きなものが使いやすい。星座観察用の双眼鏡を見つけた。倍率2.1倍で対物レンズ経42mm、接眼レンズの径20mm程度で目にさっとあてて見える。小型の割には410gと重く、長時間首につるすと肩が凝る。小型望遠鏡は70gと軽く携帯には便利だが、やや高倍率(5倍)で視野9°と狭いため、バスのように動く目標物を探して焦点を合すの時間がかかる。バスの行先が確認できないうちに到着してしまう。固定した表示板には向いている。
普通のメガネのようにかけて見えるものがあればと思う。
 ルーペは手元にある書類の確認や記入するときの必須道具である。ただし、医療や薬局窓口で行われるアンケート用紙への記入は私にとって難事業のため、先方に記入をお願いしている。IMG_6048FB.jpg
 寫眞左のルーペは昨年購入したドイツのE社の製品で、非常にクリアなレンズで、明るいLED付で、3.5x 10D 250 の表示も使う人の立場にある。レンズの度数を示す10Dは逆数がら焦点距離は0.1mで、250は目とレンズの適正距離は250mmである。レンズの焦点10cmにものを置いて、レンズと目の間を25cmにはすると像は3.5倍に見える。きちんとした使い方の表示である。
寫眞右のルーペは3.5倍の補助用のもので、ポケットに入れて持ち歩いている。
  

 ショーウィンドウに展示されている品物の値段とか説明内容を見る場合、望遠鏡では近すぎ、ルーペでは遠すぎて使えない。こんな時ズーム機能付きのコンパクトカメラでズームアップしてみる、または寫眞を撮ってズームアップしてみることができる。

 お詫び
 視力障害者に少しでも見える手立てがあればと思い、経験を並べたものです。つまらない記事となってしまったことをお詫びします。(完)
 
 
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クラス会

世界遺産富士山を楽しむクラス会/ 中西 成美

昨年60年記念クラス会の折、富士山麓に別荘をもつ片岡君から、世界遺産の富士山を楽しむクラス会を山中湖でしないかという提案があった。幹事がクラスに諮って4月下旬に実施が決まっていたが、天候が悪化し、秋(10月下旬)に延期となった。
片岡君と幹事のご努力で、西新宿から貸し切りバスで別荘に向かい富士を愛でた後、ホテルマウント富士で会食・歓談、その後、花の都公園、忍野八海その他を見学し西新宿に戻る計画となっている。参加希望者は20数名の予定。
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戦時中・思い出

一期一会  / 中川 和雄

私はここ二十年余り 靖国神社参拝を続けています。この夏の参拝の折り 社頭近くで、思いがけず、若い女性からインタビューを受けました。

「アノー、少しお話聞かせてもらっていいですか?」
「どういうことでしょう?」
「靖国神社にはよくいらっしゃいますか?」
「年二回は来ます。行く末を祈る初詣と過去を省みる八月の二回です。尤も混雑を避けて日にちはずらしています。今年は千鳥ヶ淵の桜の頃にも家の者と来ましたので三回目になります。」
「毎年来られるのは靖国神社に関係することがあったのでしょうか? 学校であまり習わなかったこともあり、私は日本の現代史をよく知りません。それで自分で調べてみたくなり、少し前からここに来て、参拝に来る人々からお話を聞いています。」
「靖国神社に参拝するのは、戦争に征かれ亡くなった方々への礼儀と 私は思っています。けれど現在、靖国神社については、いろいろいう人たちがいます。ですから私は誰も誘いません。一人でお参りを続けています。」
「もう少し詳しく話して下さい。」

「昭和二十年、中学三年生だった私たちは、学徒勤労動員で三重県の鈴鹿海軍航空隊の基地に併設されていた第二海軍航空廠 鈴鹿支廠で働いていました。勤務は朝7時から夕べ7時まで、休日は月に二日で第一と第三日曜日です。第五日曜日は休みません。仕事の多くは熟練した組長や伍長の指導を受けて、激しい訓練で傷んだり、不調になった零戦をはじめいろいろな海軍機の部品の交換や調整をすることでした。飛行機は着陸時の衝撃が激しいらしく引込脚の具合が悪くなることが多かったと記憶します。
私たちはそれぞれの職場に分かれて作業に励んでいましたが、米空軍の来襲によって空襲警報が発令されると基地のはずれに設けられた防空壕に待避しました。そのときはふだん離ればなれの友達とも一緒になり、警報が解除されるまでお喋りしていました。
夏になる頃から、鈴鹿基地では特別攻撃隊を見送ることが多くなりました。霞ヶ浦や木更津の海軍航空基地から九州の鹿屋基地に向かう途中だったのでしょう、鈴鹿で数日を過ごし、また飛び立って行かれるのでした。空襲は次第に激しく、空襲警報の発令は多くなりました。待避壕では特別攻撃隊の方々とご一緒することもありました。今にして思えば、特別攻撃隊は隊長さえ二十代後半です。多くは二十歳そこそこの若さです。待避している間は将棋を指したり、何と言うこともない雑談をして過ごしました、非常の時代に、非情の命令を受けて戦場に向かわれる方々。祖国が危急の淵にたったとき、その国に生まれその国に育った人の務めを回避する者はありません。当時、多くの人々に共有されていた『祖国のために』との想いは、お互いに敢えて口にすることはありません。それだけに私たちの間にはその想いは通い合っていたと信じます。
『この方々が特別攻撃隊だ』と思うと、私にはそのお姿が眩しく思われました。
敗戦を経て世の中は変わりました。生きている人との約束ならば、話し合って変えることもできるでしょう。けれど国の行く末を希い合った死者との誓いは絶対です。変えることはできません。私は靖国神社参拝を続けています。
特別攻撃隊が南の戦場にむかわれる時には、私たちも滑走路の脇に並んで見送りました。『帽振れ』の号令の下、海軍の礼式にしたがい、全員が帽子を振って見送るなか、滑走路の彼方から全開したエンジンの轟音とともに、次々に離陸する零式艦上戦闘機。どの方もどの方も風防を一杯に開き、身体を機外に乗り出すようにして手を振ってゆかれました。そして基地上空を幾度も幾度も旋回されて、飛び去ってゆかれる編隊を見送り、私たちは流れ落ちる涙のなかで帽子を振り続けるのでした。
 『このような時代だけれど・・・・』といわれたのか、『このような時代だから・・・・』といわれたのか、今となっては確かめられません。
『勉強しろよ。君たち。』
と空襲下の待避壕で言い残された方も飛び去って逝かれました。」

「私は今 二十四歳ですが・・・・・・・・。」
女性は涙ぐんで紅くなった眼もとをハンカチで抑えています。
そして・・・・・・・・。気づいた私もまたあの日以来、脳裏に鮮烈に焼付いている当時の情景が まざまざと眼前に蘇ってくるのでした。
 靖国の社殿近く、参道わきで若い女性と 世代の離れた爺さまとが眼を紅くして話しこんでいるのは、なにか奇異に見えるのかも知れません。行き交う人々のなかには振り返って行かれる方もあるようです。
「もっとお話をうかがいたいのですが・・・・・・・・。」
連絡先を求められました。話し合いたいこと、知って戴きたいことは、私にも多々あります。けれど話すからにはしっかりと受けとめてほしい。しかしその内容はかなり重い。受けとめたことで 女性の心になんらかの影を落とすようなことになれば申し訳ない。私は辞退しました。
「私は名前をいうほどの者ではありませんので・・・・・。
いつかまたお逢いすることがありましたら、ゆっくり話し合いましょう。 今日は話を聞いて戴き、とても嬉しかった。ありがとう。ほんとうにありがとう。」
女性とは別れました。再び逢うことは多分ないでしょう。後になって思いました。このような一期一会もあっていいのではないでしょうか。
六十八年の歳月を隔てて、現代に生きる若い女性が、あの日々の特別攻撃隊の姿に流されたあの涙が、厳しい時代にあって、さまざまに燃えていたであろう青春の想いを、国土護持の一念に 胸深く包み込んで散って逝かれた特別攻撃隊の方々に、せめてもの供養と受けて戴ければ・・・・・ 。
と切に希われるのでした。                               合掌