第Ⅱ部 戦中の活動

多くが技術将校として活動した ―3名が戦没、1名が殉職した―

昭和17年を迎えて、我々は社会に出たのであるが、先に述べたように、大部分の者が勤め先には顔を出しただけで軍務に服することになった。陸海軍の現役を就職先として選んでいた者のほか、多数が「短期現役技術将校(2年現役)制度」を志願して採用されており、数カ月の軍隊教育を受けて、陸海軍の技術将校として勤務することになっている。

不幸にして次に掲げる友が戦没している。(以下敬称を省く)

高橋祐夫は海軍委託学生に採用されており、ただちに任官、工作艦明石に乗り組み勤務、昭和19年3月30日西カロリン群島パラオ島付近で対空戦闘中戦死した。(海軍技術少佐)

岡本明修は陸軍兵技将校として「兵器行政本部」・「朝鮮軍司令部付」・「支那派遣軍司令部付」・「陸軍船舶練習部教官」を歴任、電波兵器関係の業務に従事したが、病に冒され昭和20年6月11日、広島陸軍病院にて戦病死した。(陸軍技術大尉)

前田 稔は陸軍兵技将校として陸軍技術研究所に勤務、電波兵器関係の業務に従事したが、沖縄の防空関係の部隊に転勤、昭和20年6月7日沖縄において戦死した。(陸軍技術大尉)
以上の三方はいずれも靖国神社に祀られている。

栗山国雄は逓信省工務局に就職した。現在のNTTの前身である。戦争末期に富士山頂に無線機器設置のため滞在中、高山病のため昭和20年7月6日亡くなった。富士山頂に殉職記念碑があるとのことである。

戦争中の同期生の活動

最初に従軍を免れた友の活動から始めたい。

滝 保夫は病気で一年卒業が延びたが、東大工学部に残り、無線関係理論を専門として終始教育・戦時研究に没頭して業績を上げた。

陸軍兵技短現に採用されていたが、昔の病跡で即日帰郷となった後藤誉之助は電気庁に戻って勤務したが、その後、在北京の興亜院に出向、終戦直前に運よく大東亜省に復帰し、先輩の大来佐武郎(昭和12年東大電気卒)のもと調査局で、敗戦後を見据えた日本の復興策を練り、新たな進路において、戦後の飛躍の基を築いた。

松岡 實も召集されたが、胸部の病気が発見されて解除になり、就職先の日本発送電(株)に勤務して戦後に至った。

河崎太郎は華北電業に赴任。終戦まで火力発電所の業務に従事した。このほか軍務を免れた者もいると思うが、健全な者はすべてといってよいほど従軍し、多くが技術者として活用されている。

海軍組の活動 技術者を大事にしたといわれる海軍から始める。

阿部英三は海軍委託学生として進路を定めており、横須賀海軍航空技術廠において勤務した。

楠 順三は二年現役として任官、横須賀海軍工廠に終戦まで勤務、無線・電気関係の装備などの業務に当たった。

斎藤成文も二年現役で任官、海軍技術研究所に配属、マイクロ波レーダーの開発に従事、後に日本海軍最後の艦隊となった、第二艦隊司令部付きとなり、リンガ泊地で二二号電探の指導を行った。その後航空機用電探の開発に当たり、三沢航空隊で一式陸攻に装備されたパノラマ式レーダーの実験を行うなどして終戦に至った。

海軍に就職した中村欽雄は横須賀海軍工廠勤務で、文官から武官になり、電波探知機・磁気探知機の研究・開発に従事した。

奥村 宏は海軍技術研究所に就職、終戦まで電波兵器の研究に従事した。

杉下和也は海軍技術研究所において、潜水艦用の電探の研究に従事、戦後の導波管回路理論の発展に貢献する成果を挙げている。

このほか河津祐元日下部正直新堀達也鷲尾信雄も海軍の技術士官として活躍している。

陸軍航空組 陸軍航技短期現役将校に進んだ者は、筆者を含め7名であった。就職先から早々に、1月10日水戸市の北にあった水戸陸軍飛行学校に入隊、訓練を受け5月初めに航技中尉に任官した。大卒・高専卒ほぼ同数の合計200名足らず。

小松改造はそのまま水戸陸軍飛行学校、久保原 弘は陸軍航空士官学校に配属され、教育に従事した。

加藤又彦は西満の白城子陸軍飛行学校に配属された。ここは陸軍の落下傘部隊の訓練などが行われた所、筆者の勤務した同名の航空修理廠分廠からは3―40粁離れていた。一度訪問して顔を合わせる機会を持った。

牧野六彦は航空本部で監督官、軍需省調達官として活動。苦労した。

佐波正一も遅れて航空技術に参加、陸軍航空士官学校教官として通信技術の教育に当たった。

武安義光は、西北満のチチハルに近い第九野戦航空修理廠付きとなり、南下して白城子分廠に配属された。翌年秋、南方ジャワ島バンドン市に新設の第20野戦航空廠に転任、終戦まで航空機整備、現地自活、工業学校生徒の技術教育などで働いた。1年後の電気卒の篠原一俊氏と一緒になった。

飯島健一中島俊之は不詳。

陸軍兵技組 最も多くのZ会メンバーが進んだ。

市川真人は大宮市の陸軍造兵廠で勤務し、ここで終戦を迎えた。

小平信彦は任官後、陸軍船舶司令部(広島市宇品町)で勤務。輸送船の無線機、対潜水艦探知機等の整備に従事。命に別条のない至近距離で原爆を見た。原爆被爆者である。

今野与八は任官後、東満東安の野戦兵器廠に赴任、終戦まで勤務、終戦後の混乱の中で苦労を重ね、28年まで現地で仕事をして帰国した。敗戦で一番苦労した級友であった。

澤野周一は陸軍技術研究所で勤務。三鷹で終戦。

須藤卓郎は満州・四平街の陸軍の学校に勤務した。筆者は昭和18年出張の折に訪ねて旧交を暖めた。後に内地に転勤されたはずである。

高林乍人は千葉にあった防空学校の教官として勤務した。

西島輝行は陸軍第五技術研究所勤務の後、陸軍予科士官学校教官を務めた。

西山 実は陸軍委託学生から東京第一陸軍造兵廠大宮研究所に勤務、電子顕微鏡の研究に従事、その後満州の関東軍造兵廠に勤務して、終戦を迎え苦労を重ねて帰国した。

平野宰次は陸軍防空学校関係で勤務して終戦に至った。

藤原一夫は戸山が原の第七陸軍技術研究所において、ノクトビジオンの研究に従事、終戦に至った。

三輪高明は任官後多摩陸軍技術研究所において、電波警戒機の開発に従事、昭和19年には修理班長として、スマトラ、ビルマなどを転戦、帰国後は船舶用の警戒機の調整に従事して終戦に至った。

村橋秀雄は兵技中尉に任官後、第三航空軍(在シンガポール)に配属され、南方地区の航空基地へのレーダー設置・整備に当たり、終戦まで勤務し、抑留されて昭和22年8月に帰国した。

盛定義安は満州、関東軍野戦造兵廠勤務となり、終戦後ソ連に抑留され、昭和23年に帰国した。

藤井亮一は任官後小倉造兵廠に勤務した。従軍中の自動車事故により、腰を痛める重傷を負ったとのことであった。

湯原仁夫は委託学生となり陸軍に入った。兵器行政の分野で活躍したと思う。昭和19年秋、出張で筆者の在勤地ジャワ島バンドンに立ち寄った際、旧交を暖めた。帰国に大苦労、命からがらたどり着いたと聞いた。

星埜 衛も陸軍委託学生から任官。

町原 熙は満州ハイラルに勤務、2年後南方の豪北ハルマヘラ島の部隊に転属し苦労を重ね、終戦に至った。

記録補充を要する者

上田克也、尾上通雄、川島 浩、粂沢郁郎、塙 宜良、花形 澄、藤澤喜行、森重太郎

コメント2件 : “ 第Ⅱ部 戦中の活動”

  1. 松原正一 より:

     昭和20年9月一工電気卒の松原です。在学中に実験のご指導をいただいた瀧先生のほか存知上げてる方が数名おられますが、お亡くなりになられた方が多いことは残念です。
     中村欽雄先輩:お会いしたことはないのですが、四高の先輩に当られ、四高の同窓会誌で卓球でのご活躍が度々紹介されておりました。父君は小生の金沢一中在学中の校長先生で、見事な禿頭のせいで「クリパン」のニックネームを奉られておられました。
     

  2. 松原正一 より:

    続き
     市川眞人先輩:名大で大学院情報専攻の創設に中心的役割を果たされました。基幹講座のほかに協力講座を置く必要が生じたとき、化学工学専攻で制御を担当していた私に声を掛けていただき、お手伝いをさせていただきました。
     松岡 實先輩:昭和19年6月から勤労動員で日本発送電の建設局電気部第一課に配属になり、机を並べさせていただきました。
     加藤又彦先輩:三菱電機のあとに大同工大にお勤めでしたが、停年になられたとき、入れ代わりに小生が大同工大に勤めることになり、いろいろご指導いただきました。その後、アルツハイマーだったかパーキンソン病だったかで入院され、お見舞いに伺ったことがありました。

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