敗戦まで/丹羽登

1.二工の1回生

高校のころ、所属していた部の先輩にさそわれて東大の五月祭を見に行った。広い本郷キャンパスを回り、建設中の電気3号館の前で先輩から「君が受ける頃にはここも出来ているよ」と言われた。

東大の合格発表のとき、合格の喜びと共に、二工側に我が名を見いだした気持ちはいささか複雑であった。2~3年前に建設中だった3号館は出来ていたけれども、並行して第二工学部も(制度上は)出来ていたのだが、本郷での晴れの入学式の午後総武線稲毛駅から歩いた話以降は二工の諸君はご記憶の通り。

入学直後の4月18日の昼休みに草野球をしていると突如として星のマークの双発機が一機超低空で海岸線に沿って稲毛の方へ飛ぶのを見て驚いた。砲塔から機関砲が突き出ているのにはギョットした。飛び去ってから空襲警報が鳴り、あらぬ方で高射砲弾が飛び交った。なお翌年の電波報国隊で、VHF連続波の、俗にワンワン式と呼ばれる警戒装置が外房に設置されており、あの時の奇襲機を捕捉していたが、東京への通報連絡系の不備で警報が遅れたとか聞いた。

二工開設時から、電気工学実験は食堂の調理室で、また初期には一部の実験には本郷に通った。西千葉駅が出来たのは半年後であった。その頃から電気工学科の合格者を一工・二工と、どうやって振り分けたのだろうという疑問が話題となっていた。「双方の学力が等しくなるように・・」と言う定説のほかに「一工:二工の学生名簿で同姓の級友の分布を見ると田中君は双方に2人づつだが、藤井君は0:2、島田君は3:0と極端に偏在している。これは或るルールに従って機械的に分けた証拠ではないか」という説もあった。

2.幹事のたわごと

クラス委員は名簿の順に相田君から始まっていたが、小生も本郷とのパイプは太く保ちたいと気付き、先生方や一工側との連絡役を務めていた。入学した年の頃には東京の西側にある豊島園で一・二工合同の電気科の懇親会が開かれている。また東京の食糧事情が悪化していた頃、二工の学生食堂での合同懇親会に豚を1匹つぶすからとの宣伝が効きすぎて本郷からは大山・阪本先生始め予想外の多数の参加者を得て嬉しい悲鳴をあげたのであった。

卒業後二工への就職が内定したとき星合先生から「君達のクラスが本郷側と良く連絡を取ってくれないと後のクラスが困るよ」と言われたのを肝に銘じている。クラス会を最初に一・二工合同で開こうと一工側の幹事に申し入れた時は、断られないかと内心ビクビクしていた。幸いにして快諾され、その後も他の幹事諸氏と共に合同クラス会を続けることができた。

しかし膝が痛くて杖を愛用していたところ、2~3年前からは腰痛から始まって体中の節々が痛く、整形外科とリハビリに通ってはいるが一進一退。昔からの心臓異常とからんで老化が急進し、朝起きられない日もあるので周囲の皆様にご迷惑のかけっぱなし。出席責任のある仕事は去る3月の年度末で全部辞任し、このクラス会の幹事も妻藤君に交替して戴けた。他方、体が動く日は出席責任の無い会合にも、自分の健康のために極力出席し、大声で話すので「元気そうじゃないですか」と窮状を理解していただけず困りはてている。

3.卒論から敗戦まで

電波報国隊が終わって卒業研究が始まるとき、高木教授から与えられたテーマはパルスレーダーの「疑似目標発生装置」であった。当時のレーダーは不安定で調整は困難を極めた。広い平野や海上では疑似エコーを較正に使いたい。超音波遅延素子で疑似エコーを出す、と説明された。同盟国ドイツから潜水艦で運ばれて来た俗称レーボックと言う装置と後日知った。

卒業研究の仲間は田中喜洋君で、彼が「回路の方を引き受ける」と先に選んでしまったので超音波遅延素子が小生の方へ回ってきた。水晶振動子と石英棒を切断・研磨・電極メッキをして接着するのだが、不明なことばかりで、苦心惨潅であった。田中君作の試験装置でテストを繰り返した。小さなエコーを初めてCRT上に見たとき我々は歓喜した。その後遅延素子の作りかたがうまくなり、試験装置の性能も上がって、多重エコーが次の繰り返しまで続くようにもなった。

その頃研究室は電波兵器の遅れに対応して新設された陸軍多摩技術研究所の分室になっていた。エコーが出るようになると多摩研や住通・東芝からそれぞれのレーダーの較正装憧に使うべく種々の仕様の遅延素子の注文が来はじめ、その製作は動労動貝の女子高校生に移っていた。

卒業期が来て筆者は大学院特別研究生として同じ研究を続け得ることになり、較正装置本体の製作にかかった。波長1.5m用の靖1号機は設計計画から板金加工・配線・局発の周波数調整・アンテナ加工など全部自分でやった。真空管の不足・不良に悩まされながらも何とか本体をまとめあげた。立川の多摩研で出力・周波数などチェックの後、実用レーダーに対応すべく、入営直前の佐下橋助手と共に東芝小向調整場へ行き「た号改4型」標定機(た号とは陸軍でのレーダー)を借用し、種々データをとり、きれいなエコーを出せるに至った。これらの多摩研立川・住通生田・東芝小向などぺの打合せには高木教授のお供で何回も通った。目黒の海軍技研へ連絡に行った際、較正装置を見学し、やはり海軍の方が進んでいると知った。

その頃は既に米軍の空襲で東京近辺の交通は困難を極めていた。3月10日の大空襲の日は午後に会議が予定されており是非とも千葉へ着きたかった。飯田橋駅まで来て、不通は亀戸まで吉聞き歩きだした。まだ燃えている街の強い屍臭や惨状は描写に堪えぬ。国電に乗れたのは市川駅からであった。水晶振動子研磨のリーダーであった市鳥淳君の神田あたりは全焼で、同君は行方不明であった。

3月には研究室の山梨県への疎開が伝えられ、下旬に荷作開始、4月中旬に日下部駅(現在の山梨市駅)向け貨車を2両出じた。高木教授以下の先発隊が下旬に、また本隊も着いて5月5日に一宮村で開所式を迎えた。日川中学(現在の日川高校、後に甲子園で活躍)に開設した研究室では早速女子高校生の水晶擦りなどが始まった。東京よりは食料事情が良いとは言え、突然の大部隊の集団生活は困難を極めた。女子職員が健闘した。土地に馴れてからは近隣ヘラジオ修理に回った。当時ラジオは空襲警報を聞くための必需品で、大歓迎された。食糧難を補い、特上の葡萄酒の恩恵に預かる日もあった。

卒業研究の仲間だった田中喜洋君も6月には較正装置製作のため多摩研から派遣されて来た。人営者で男子職員は減っていたが卒論学生と動員の2年生で研究勢力は増していた。研究室では遅延素子の等間隔エコーを距離百盛の較正に使うべく音速測定を進めていた。そのエコー群による「た号直距離精度向上演習」の計画が姶まり、較正装置を担いで関東地区の「た号二型、三型、改四型」を回った。7月上旬には1週間に5箇所の「た号陣地」を回ったこともあった。優秀な分隊長がいて、顕著な固定エコーを示す煙突迄の距離を実測して高い測距楕度で「た号」を使いこなしている陣地もあった。

このように東京・千葉と日川との二重生活が続いていた。筆者のメモによると例えば6月の宿泊先は軍陣地:5泊、日川宿舎:11泊、日川実験室ごろ寝:2回、千葉実験室ごろ寝:4回、中野自宅:8泊く合計30日となっている。よく体力が続いたものだと驚くが、級友は皆軍服なのだからと緊張しきっていたのだ。

これらの地上用標定機と別にタキ1、タキ2(タキnとは航空機塔載用た号)と電波報国隊で接した高度計(タキ11)にも較正装置を使いたいと要請があり、7月から旧中喜洋君ほかと共に富山飛行場での演習に参加した。九九式双発軽爆の機首にヤギアンテナを突出しているタキ1と持参した装置を地上で整備して待つのだが、天候が悪くて滑走路の使用許可が降りず天気待ちが続いた。許可が出て飛んだタキ1搭載機が宿山湾で45㎞先の船のエコーを見たとのことであったが、滑走蹄半ぱの水溜りの先に披地して先端で止まらず機休}破したのには篤いた(その機に筆者は不搭乗)。台風接近や機材整備で演刊は巾断した。

富山へは3往復したが、鉄道は既に空爆や機銃掃射などで寸断されていた。乗継ぎ待ちの夜、知人宅に宿泊できた日もあったが、駅前旅館に桐部屋素泊り、塩尻駅ではホームで寝るなど、予定は大混乱であった。特に8月5日早朝に富山駅に着いて見た街の惨状には驚いた。8月1日の空製で街の92%焼失した由。富山で敗戦を閉いた時は複雑な想いであったが、飛行班は大変な剣幕であった。

本稿の表題はあえて「敗戦」とした。「終戦」とも言うが明らかに敗けたのだ。しかも敗戦直前まで其の調整・安定化に全力を注いでいた電波兵器で敗けたとも言えるのだ。責任を回避するわけではないが、我々が関与しはじめた頃には電子機器の劣勢は目に見えていた。国力の差であった。

電波報国隊から敗戦までに習得したパルスレーダーの実技と、必要にせまられて吸収した知識を基にして、戦後にパルス反射型の超音波探傷器を作り、非破壊検査グループの立ち挙げに関与できた。そのあたりの経緯は「日本非破壊検査協会50年史」・機関誌「非破壊検査」などに書く機会があった。しかし今回電波報国隊の記録をまとめるにあたり、敗職までの体験も筆者にとっては極めて重要であったと気付ぎ、紙面を拝借させていただいた。

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