美談か苦労話か/粟冠俊勝

矢部さんから執筆依頼が来て、半世紀ぶりに電波報國隊と云う言葉を思い出しました。電波報國隊を可能にした国家総動員法等々を思い出すには、大分手間が掛かりましたが。

昭和13年の、それはノモンハン惨敗の前年ですが、総動員法は政府に事実上の独裁権を与えたもので、大抵の事は勅令等で、当事者が小さいと考えた事は、その通牒等で決められる云う物でした。

学徒出陣は前者で、昭和18年の臨時特令です。しかし学徒動員の強制を定めた「学徒勤労令」は昭和19年の筈ですから、我々の電波報國隊はその直前、商工大臣(もしかすると省の名前が変って軍需大臣)のご意向による口頭の通牒だったかも知れません。

あの狂気と動乱の時代に生まれていなかった世代に電波報國隊の経験を話しても、美談か苦労話としか受け取られない事を恐れます。

「軍部が何の見境もなく熟練工を徴兵してしまったので、電波兵器の生産が麻揮状態になってしまった。それを憂いた学生達が、お国のため、自ら進んで学業を中断して軍需工場に…」と云う調子に。

「恐れます」と言ったのは、今も当時と同様、お偉方の責任を隠匿するために、動機の美しさ、純粋さ、目的の正しさ、高尚さだけを強調して、惨めな結果には眼が行かないようにしようとする力が働いているからです。

あの「正しく、高尚な」目的は何だったのか。私の記憶では「アジアから鬼畜米英を駆逐して、そこに日本のための王道楽土、すなわち大東亜共栄圏を建立(コンリュウ)し、あわせて恐れ多くもアキツカミであらせられるカミゴイチニンの御稜威(ミイツ)と御仁慈を八紘(ハッコウ)に宣布する」事でした。

白痴的、宗教的とも言える当時の狂気の政治的背景は、今の世代に冷静に、客観的に(このような情緒的、逆狂気的でなく)伝える事は出来ないものでしょうか。それをする事があの法文系の友人達、昭和18年に、自動小銃でなく、明治38年の38式歩兵銃を担がされて学徒出陣した友人達、或いは1トンでなくコンマ1トンの爆弾1個で特攻に出撃した友人達への申し訳になるような感じがするのですが。

(昭十九会編「寄せ書き」<平成16年10月>より)

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