【29号】定年を迎えて/飯口眞一

私は、昭和60年3月を以て、東京大学を定年退官致しますが、恒例により、この会報に紙面をいただきましたので、諸先輩と同じ様な調子で書かせていただきます。

私は、昭和23年3月、一工の電気工学科を卒業しましたあと、通信省から電々公社まで15年(内通研13年)、東大の航研から現施設迄22年間勤務致しました。東大に参りましてからは、本郷の電気・電子工学科及び麻布の生産技術研究所第3部の教官の方々とは、大学院教育を通して、公的私的に、おつき合いをいただきました。

さて、学生時代より教えて、この3月で、丁度40年になりますが、夫々の時代に分けて記すことと致します。

1. 学生時代:本郷の電気工学科に入学しましたのが、昭和20年4月でありますが、まだ東京空襲の盛んな頃でありました。私は、大崎と本郷とで2回、下宿先を焼出されました。その後、8月15日には、安田講堂内で終戦の詔勅をラジオで伺い、敗戦で終結したことを知りました。間もなく授業は再開され、普通に学生生活を送り、23年3月に卒業しました。卒業研究は、空胴共振器のQを測定して、導波管の減衰定数を求めることでありました。

2. 逓信省・電気通信省時代:卒業後すぐに逓信省に入りました。分野としては無線を選び、VHFの端局に配属になりました。搬送電話の長距離回線として我国で、無線が用いられたのは、昭和19年の東京・八丈間のVHF回線を始めとするのですが、昭和21年に、東京・大阪間のVHF回線が出来ました。それらは、電話6チャンネルだけのものでした。私は、建設中の東京・新潟間のVHF回線の東京の端局に入った訳であります。その後、僅か6年後、昭和29年に、東京・大阪間のマイクロ波回線(電話360チャンネル)が完成し、VHF回線|ま,昭和30年二人ってから次第に撤去されて行きました。

3. 通研時代:電気試験所が分割し、電気通信省・通研が発足して拡張するに際して、昭和25年に通研に移りました。通研では、マイクロ波の開発が一段落し、新たに、ミリ波の導波管伝送の研究を小規模で始めましたが、私は、そのプロジェクトに入り、理論的解析、導波管コンポネントの開発及び回線設計などに従事しました。ミリ波の研究は、アメリカのベル研究所の仕事をお手本に始めた訳でありますが、10年後には、追いついて、昭和40年頃には、通研の講堂で、ベル研と合同シンボジウムを開く所まで進みました 青図は、ほぼ完成しましたが、アメリカで実用しなかった事もあって、当時、周波数帯域が、それ程必要なかった事と、経済的理由などの為に、実用化しなかったのは残念であります。アメリカで、行わなくとも、我国で、強引に、一つの地域ででも、実用化していたならばと悔まれる所であります。

通研のミリ波の研究グループは、自由で、活気にみちて居りました。又、通研の図書館の蔵書はよく揃っており、素晴しいものでした。

4. 航研、宇航研及び境界研時代:東大航研では、航法と航行援助などを開発する計測部と言う部があったのですが、そこで、無線関係の人が必要であると言う事で、私が参加する事となりました。昭和38年の事であります。

そこでは、私の専門の仕事の他に、三次元レーダやドップラ航法どの開発のお手伝をしました。又、後には、マイクロ波を用いた航空機の着陸装置の基礎研究を行いました。

大学院の講義として、「アンテナ工学」を担当して参りました。大学3年生以来、38年に亘って、「電磁波工学」に関する研究を行って来た訳でありますが、その間、多くの新しい発明・発見に刺激されて来ました。それ等は、トランジスタ、表面波伝達線、フェライト応用、パラメトリック増幅器、メーザ、エサキダイオード、レーザ、ガン発振器、インバット、光ファイバ等であります。

又、宇宙研に在籍していた事と、電気学会の電磁界理論研究専門委員会に属していた事もあって、この数年間、一般相対論の学習をして参りました。何か出るかも知れないと一撲の望みをもって始めた訳でありますが、退官となっては、続けられるかどうか不明であります。宇航研も自由の気にみちており、その教授会の議論は活気があり、興味深いものでありました。

終わりになりましたが、之まで、同窓会の皆様から、大変良くしていただきましたが、今後とも宜しくお願申し上げて、筆を擱くことと致します。

(昭和23年3月卒 東京大学工学部境界領域研究施設教授)

<29号 昭60(1985)>

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