【26号】第二工学部の卒業生として/丹 羽登

東大の電気工学科に入学したのが1942年4月、第二工学部の第1回生としてでありました。丁度40年昔のことであります。そして昨年還歴を迎え、本年東大を定年退官するにあたり恒例によってこの会誌に誌面を与えられましたので、学生の側から見た二工発足当時のことを書かせていただきます(教官の側から見た記録は生産技研編「東大第二工学部史」、瀬藤先生記念会刊「瀬藤象二先生の業績と追憶」などに詳しい)。

“パパは東大の夜間部?”

昨年、昭和24年二工電気卒の三田勝茂氏、山本卓真氏が相継いで日立、富士通の社長になられた時、週刊誌が“パパは東大の夜間部だったの?”とかいう表題で二工のことをとりあげていた。

第二×学部というとやはり大学本部と離れた地方にあるとか夜間部という連想がわくのは自然であるし、10年にわたる二工電気工学科の卒業生数(合計323人、分校を含む)は1879年明治12年)以来103年にわたる電気(含電子)工学科の卒業生総数の僅か7.6%にしかあたらない。すなわち全体に較べれば少数勢力でしかないといえる。ただ“二工二工という方がおかしい。渾然一体なのだから今頃になって二工を振り廻すな”という声もある。しかし学科によっては電気科と違って一工、二工の間の縁が比較的遠いところもあるようだし、夜間部と間違えられるのも残念だから、やはり二工の存在は強調しておきたい。

“二工に廻された”

入試発表の日、あこがれの電気工学科に入れたという喜びとともに、二工側に我が名を見出した時はいささか複雑な気持であった。晴れの入学式は午前中に本郷で行われ、午後千葉に着いてみると、いも畠の中に、本部・講堂・食堂が出来ている他に学科の建物は指折り数える程しか建っていない。そんな環境の中で我々第二工学部の一回生の生活が始まったのである。入学したばかりの4月18日の昼休みに野球をやっていると(グランドは無いが野球はどこででもできる)突如として異様な(当時としては)大形の双発機が一機、低空を海岸線に沿って稲毛の方へ飛ぶのを見て驚いた。飛び去りかけた頃、空襲警報が鳴り、あらぬ方で高射砲弾が飛ぶので、やはり敵機であったのかと、未だ初戦の勝利に沸いていた頃なので複雑な想いであった。あとになってから米空母ホーネットからのB‐25と知った。

何しろ上級生も下級生も居ない原っばの中の一クラスなので、遊ぶ方の団結は自然に出来るのだが、やはり東京から遠いことの不便さは避け難く、また電気としての実験も当初は学生食堂の調理室で行われていた。

このようなわけで我々は“二工に廻された”という表現を使っていた。正直なところ小生自身も最初はがっかりしたが、ここで同級生の士気を鼓舞する必要ありと痛感し、先生方、本郷との連絡役、つまリクラス委員を買って出て、顔の広さを大いに活用した。

入学した年の夏には豊島園で一・二工電気科合同の懇親会が開かれているし、東京の食糧事情が既に悪化した頃、二工の学生食堂で合同懇親会を開くことになったところ、豚を一匹つぶすからとの宣伝が効きすぎて、本郷からも大山・阪本先生始め予想外の多数の参加者を得て嬉しい悲鳴をあげたのであった。

待望の西千葉駅

現在は東京地下駅経由で久里浜へつながる快速線や、高田馬場・中野から三鷹まで乗り入れている東西線などが増えて便利になった京葉地区だが、当時の総武線は何本かに1本しか千葉迄行かず、しかも我々1回生が入学してから2回生が入ってくるまでの半年間は西千葉駅が無く、稲毛から線路沿いに汗をかき乍ら20分余も歩いて通ったのであった(その行列のスナップ写真は卒業アルバムに使った後、前記の第二工学部史にも掲載されている)

待望の西千葉駅は開設予定の(1942年)10月1日が近づいても新設工事がさっばり進まないので心配していたところ、僅か2~3日前からのラストスパートで予定通り開設にこぎつけ、国鉄の輸送力の強大さに、改めて感心させられたのであった。

この西千葉駅の新設の後、京成電車も、二工の正門からの垂線の足のあたりに駅を移して“帝大工学部前”駅が出来た。しかしこのような改良にもかかわらず東京からの遠さは如何ともし難く、大部分の学生は学生宿舎(それも出来たのは同年夏で、それまでは臨時の宿舎に分宿していた)に入っていた。いわゆる大学生らしくない旧制高校の寮生活にも似た学生時代ではあったが、連帯というか、学生間の縦横のつながりは熟成されていたといえよう。始めは東京から通っていた小生もやはり能率が悪いので途中から寮に進出し、千葉と東京との二重生活を続けていた。

一工、二工の振り分け

その頃から我々二工学生の間で合格者を一工、二工と、どうやって振り分けたのだろうということが話題となっていた。専らの噂は単なる入試順位の奇数偶数ではなく、「収容人数が不等の場合も含めて双方の学生群の学力が等しくなるように分けた」という説で、我々はその定説に納得していた。その後の公式記録によっても、この説は本当のようである。

すなわち、母集団が等しい二つのグループを違う環境で、すなわち歴史と伝統の本郷キャンパスに新装成ったばかりの3号館と、片や、いも畠の中の木造の教室と学生察とでほぼ同様な教育をしたらどうなるのか?学力はともかく、性格・気質にまで有意差が現れるのか否か?卒業生を統計的に調べてみたら面白いと思われる。

東大を去るに当り

さて前記のような学生生活も束の間、戦局の悪化は大学生の勉学を許さず、入学後1年半程で学徒動員令が公布され、1943年10月、神宮外苑競技場で出陣学校壮行会が催されるに到り、我々電気科の学生も“電波報国隊”としてレーダー作りに励むことになった。

半年繰上げによって1944年9月に卒業した後も小生は大学院特別研究生、講師として大学に残ることを許され、共通教室の講座だったので他学科の学生さんの電気工学実験の世話などをしていた。その後生産技術・理工学研・航空研・宇宙研を経て、この1年程は工学部境界研と、非破壊試験・超音波計測・画像計測を中心とした仕事に励むことが出来ました。

今後も非破壊試験技術者の教育・技量認定の仕事、世界非破壊試験会議への日本代表、国際原子力機構による各国の非破壊試験教育の仕事など、今迄と同じような仕事が当分続きそうです。立派な恩師・先輩の御指導を受け、良い同僚・後輩諸君に囲まれて楽しい研究生活を続け得たことを感謝しながら東大を去ることが出来る次第であります。

(昭和19年9月卒 東京大学工学部境界領域研究施設教授)

<26号 昭57(1982)>

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