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今、第二工学部を回顧するのは/尾上守夫

※本稿は「東京大學生産技術研究所 第2工学部記念誌編集委員会:未来に語り継ぐメッセージ、2012」より転載するものです。

1. まえがき

今年2012年は東京帝国大学に新しく第二工学部が誕生して七十周年にあたる。それを記念して、回顧の執筆を求められた。それに相応しい先輩の先生方が沢山おられるが、すでに物故された方も多い。それで私にお鉢が回ってきた。当時若輩だった私には荷が重いが、東大に第二工学部(二工)があったことさえご存知ない今の世代の方々に、第二工学部が今に持つ意味をお伝えしたいと思って、お引受けした。ただ内容はあくまで私のパーソナルな回顧であって、生研や東大のオフィシャルな立場とは関係ないことを予めお断りしておく。普通七十周年といえば、人でも組織でもその長年にわたる活動を祝うものである、しかし第二工学部は僅か十年余の短命の学部であった。しかしその記念は、この本をご覧になると判るように、夭折した子をいたむような、単なる追悼ではない、戦争に備えて作られた学部ではあるが、戦争中に卒業したのは終戦直前の第一回生約四百名のみである。残りの二千余名の卒業生とともに、それが戦後の復興に如何に寄与したかは、本書に収められた方々のメッセージからも明らかである。また閉学とともに人材の多くを引き継いで新たに発足した生産技術研究所(生研)は、二工建学のスピリットというべきものが満ちていて、今日までめざましい発展を遂げている。まさに剣を鋤にかえた天の配剤であって、われわれはそれを記念するのである。

昨年の東日本大震災と原発事故は、日本にとって第二の敗戦ともいうべき深刻な事態であった。被災された方々に心からお見舞い申し上げる。私はその年末に仙台の南で、津波のあとをみる機会があった。かつては殷賑をきわめた町並みが、すべて押し流されて、海まで目をさえぎるものがない一面の荒野に化していた。思うたびに胸が痛む。ただ私達の年代は戦争中に同じような光景を何度も目にしている。東京も高台に立てば、東京湾まで一面の焼け野原であった。東京だけでなく、全国の都市という都市が皆同じような光景であった。しかし二工の卒業生、生研の職員はいたずらに破壊の跡を嘆くことなく、眼を前にむけて復興に遭進したのである。それを支えたのが二工の教育であり、二工のスピリットであった。それは今われわれが直面している第二の敗戦後の復興にも、資する点が少くないと思われる。

2. 半世紀区切りの歴史

最近の日本の歴史は、ほぼ半世紀ごとに大変大きな変革を経験している。恐らくそれは個人の活動期問とほぼ同じく、また世代の交代によって、昔のことは忘れてしまうことに関係するのであろう。表1.はそれを示した簡単な年表である。

1853年にペリーの艦隊が浦賀に入港した。実はその前の五十年位前にも、ロシアの船が来たりということで、徳川の安定した時代がそろそろ終わりになるいろいろな兆候はあったが、やはりペリーの来航は日本の歴史にとって非常に大きな出来事であった。そのあとで二世紀続いた鎖国が解かれ、最初の通商条約が結ばれたが、英断を下した井伊大老は桜田門外で暗殺された。1868年に明治維新、そこからわれわれは近代社会に足を踏み入れた。外国では、1848年に共産党宣言があり、中国では1850年に太平天国の乱があった。ヨーロッパではクリミア戦争、これはオスマントルコとイギリスなどとの戦争で、今のイスラムなどと重ねてみると、歴史というのは繰り返しているなという感じもある。当時はまだ世界的な経済になってはいなかったが、クリミア戦争のあとで、ヨーロッパではかなりの経済恐慌があった。いつの時代にも、その時代を引っ張っていくようなスローガンがある。ペリー来航までは尊皇攘夷、それを開国派が制して明治維新を迎えて文明開化を旗印に、日本は西欧化に邁進した。今われわれが普通に使っている物理とか化学とか哲学とか、そういう言葉は全部この時期に、西洋の言葉から日本語として作られたものである。我々の先輩は安易にカタカナに頼ることなく、言葉の意味を吟味して、自分の言葉を築いていったわけである。科学の出来事を二、三拾うと、1848年にブールがブール代数、今でいう論理数学を出している。これは今も計算機の基礎理論に使われている。物理のほうではクラジウスの熱力学の第一、第二法則が発見 されて、熱機関が出てくる準備が整った。1851年にはロンドンで第一回の万国博覧会が催された。そこではスチールとガラスでつくった非常に斬新な建物、今も残るクリスタルパレスが、その後の建築を象徴していた。それから半世紀経った1900年代になる寸前、1894年には日清戦争があった。これは日本の立ち上がりをかけた大事な戦争であった、そのあと三国干渉があって、国際的な孤立を味わうことになる。それで一つには国際的な仲間をつくり、一つには武力を拡充しなければいけないということで、1902年には日英同盟が結ばれた。そのおかげで、1904年の日露戦争が戦えた。イギリスは当時日本に六隻の戦艦を売ってくれた。このあいだ私はスコットランドのグラスゴーに行く機会があったが、あそこの造船所は、その一隻、日進をつくっている。そういうことで、やっと日露戦争に勝つことができたけれども、この頃から文明開化ではなくて、富国強兵が国のスローガンになってきた。1914~18年には第一次大戦があった。日本はかなりあとから参加して、いわば漁夫の利を得た。その代わりに戦後の不況、1929年の大恐慌に巻き込まれて、大きな傷を負った。

1850年代 尊王攘夷→文明開化
1848 共産党宣言
1850 太平天国の乱
1853 ペリー来航
1853~6 クリミア戦争
1857 経済恐慌
1868 明治維新
1848 ブール代数
1850 クラジウス熱力学第1、2法則
1851 ロンドン第1回万国博覧会
1900年代 文明開化→富国強兵
1894 日清戦争
1902 日英同盟
1904 日露戦争
1914~8 第一次大戦
1929 世界大恐慌
1896 ベクレル放射能発見
1897 トムソン電子の発見
1900 プランク量子仮説
1903 ライト兄弟飛行機
1950年代 富国強兵→平和国家、産業立国
1941~5 第二次大戦
1949 中華人民共和国
1949 ドッジ・ライン
1950 朝鮮戦争
1951 講和粂約
1955 保守合同
1960~75 ベトナム戦争
1945 ブッシュ メメックス
1945 原子爆弾
1946 電子計箪機 ENIAC
1948 トランジスタ
2000年代       ?

表1: 半世紀区切りの日本歴史

科学の方では一1896年にベクレルのウランの放射能の発見があり、このあとすぐキューリー夫妻のポロニゥムとラジウムの発見がある。不変の素子と思われていた原子が、自然に壊れていくことがあるということが判ったわけである。電子もトムソンによって発見されている。それからプランクが黒体輻射に関連して量子仮説を出した。1900年のことである。それから約半世紀の量子力学の発展があって、1948年にトランジスタが発明された。したがって今隆盛の半導体工業はすでに一世紀の歴史がある。そして学理から日常の製品になるまで、約半世紀かかっている。学問に長期の視野が欠かせない証左であろう。なお飛行機もこの時期に出ている。

1950年代に入る。1941~45年の第二次大戦が終わって、日本は富国強兵からまた百八十度転換して平和国家と産業立国とがスローガンになった。大戦のあとの不況,当時日本は占領下にあり、ドツジの指示で大変なデフレ政策が行なわれた。今とよく似ている。ところが朝鮮戦争が勃発した。すぐ隣の国であるが、日本は新憲法のおかげで,直接戦闘に加わらずにすんだ。しかも特需のおかげで産業は息を吹き返した。1951年にはサンフランシスコ講和条約が締結され、1955年の保守合同で政治的にも安定して、いわゆる55年体制になり、高度成長路線を邁進することになる。

世界に目を移すと、1949年に中華人民共和国が成立した。昔清国は「眠れる獅子」と呼ばれたことがあるが、今の中国は目覚めた獅子の感がある。朝鮮戦争と前後して、インドシナでも戦乱が起こった。最初はフランスと植民地との戦いであったが、その後アメリカが引きずり込まれて、長いベトナム戦争を戦った。そしてアメリカは軍事のみならず、経済、文化にも深い傷を負った。

科学のほうでは、アメリカの戦時研究の中心的指導者であったブッシュが、第二次大戦の終りも見えてきた頃、「As we may think」という有名な論文を書いた。戦時研究に動員した科学者及びその成果を、戦後にどう活かすかという内容を論じている。その中にメメックスというものが出てくる。これが現在インターネットなどで使われているハイパーテキスト、階層構造の情報の蓄積・検索を最初に構想したものだと言われている。ENIACという最初の電子管式計算機もこの頃動きだしている。1946年にはフォン・ノイマンが現在も主流であるノイマン型の計算機、ストアド・プログラムを提案した。トランジスタは1948年に出ているから、現在の情報化社会の芽はほとんどこの時期に出てきているわけである。原子爆弾、それの平和利用としての原子力の発展も同時期である。

3. 第二工学部

第二次大戦開戦の少し前から、工業力を充実しなければいけない、それには何より工学の技術者を増やさなければいけない、という国家的要請があった。工学部を強化した名古屋帝国大学の創立や台北帝国大学の工学部の設置がなされた。それと同じように東京帝国大学にも、工学部の卒業生を一挙に二倍にしてくれという政府の要請があった。しかもそれを一年ぐらいでやってくれという、無理な話であった。当時のことであるから、造船で有名な平賀譲総長は引き受けて、もう一つ工学部をつくることになった。その任にあたられたのが電気の瀬藤象二先生である。約束どおり1942年4月には第一回生四百二十一名が入学した。ところが1945年には、戦争は終わってしまったので、第一回生はその寸前に卒業したが、第二回生以後は全て卒業は戦後である。戦争のためにつくった学部だとよく言われるが、実際は戦後の復興のためにつくった学部といっても過言ではない。しかし残念なことに、後述のような経緯で、1951年に閉学した。そのあと工学部の分校という格好で二年ぐらい続き、全部で二千七百六十八名の卒業生を送り出した。それが前述のように、戦後の日本の産業の復興発展のために、非常な力になったことは、本書のインタビューからも明らかであろう。

第二工学部の設立には大勢の先生方が貢献されている。いちいちお名前を挙げていたのではとてもキリがないので、ここでは全部省かせて頂き、瀬藤先生についてだけふれておきたい。というのは前述のように、先生は初代の学部長であられたのみならず、閉学のときの学部長(三代目)であり、さらに生産技術研究所の発足のときの初代所長でもあられた。まさに第二工学部も生産技術研究所も先生の情熱と識見によって形作られたといってもよいのではないかと思う。先生は当時五十歳で工学部電気工学科教授であった。若いが人望があり、みんなを引っ張っていく指導力があった。理化学研究所にも研究室をもっておられた。第一次大戦の頃に、日木は直接の戦禍は蒙らなかったが、欧米からの物資は勿論、技術情報の輸入がほとんど途絶した。そうすると日本には工業の基礎たる技術がいかに欠けているかをみな痛感した。やはりこれは自前の研究・技術開発をやらなければならないということで、できたのが理化学研究所(理研)である。とくに三代目の理事長であられた大河内正敏先生は研究成果と工業との結び付きを非常に強調された。

余談になるが、私が東大の定年後にご厄介になったリコーも、一番最初の名前は理研感光紙株式会社であった。理研の桜井先生が発明された陽画感光紙(青焼きの紙)をつくる会社だった。その後カメラをつくるようになって、理研光学工業株式会社と改名し、それをカタカナにしたのがリコーである。今はオフィス・オートメーションの会社だが、そういうことで理化学研究所にはご縁がある。

理化学研究所というのは、「科学者たちの楽園」という本にも書かれているように、研究者達は自由な雰囲気を享受しながら優れた成果をあげた。しかも大河内先生はその成果を世にだすために、二十六社を設立された。リコーだけではなく、理研から生まれて現在も発展している会社がいくつもある。そういうように研究成果の上がった原因の一つは、主任研究員制度にあると思う。優秀な人を主任研究員にして、研究室の運営を自由に任せた。定年などで主任研究員が交代する時は、新しい研究テーマを自由に選べた。これは私見であるが、瀬藤先生がつくられた第二工学部や生産技術研究所には、そういう雰囲気がよく伝わって来ているように思う。

瀬藤先生ご自身は理研では、アルマイトすなわちアルミの陽極酸化の研究をやっておられた。非常に耐蝕性のいい膜ができる。現在弁当箱やサッシなどほとんどのアルミ製品にこの処理が施されている。第二工学部にこられる前後から電子顕微鏡の研究を始められた。ベルリン工科大学のルスカが最初に開発したものだが、性能的には不完全なものであった。瀬藤先生はその重要性を早くから見抜かれて学術振興会の中に委貝会をつくって、戦中から戦後にかけて共同研究を指揮された.先生は大変厳しく、会ごとに宿題を出して、次にここまでをやろうと引っ張られたと聞いている。そのおかげで戦争中は情報が入らないので、全く独自に進めたが、戦後ふたを開けてみたら、基本的部分では外国に一歩もひけをとらなかったといわれている。事実日本の電子顕微鏡は優秀で戦後十年も立たないうちから重要な輸出品になっている。先生はその功績で1973年文化勲章を受けられた。写真①は製品になった電子顕微鏡(日立)を視察される先生である。

写真1-電子顕微鏡と瀬藤先生

写真① 電子顕微鏡と瀬藤先生

第二工学部の特色を、私見であるが、表2.に並べてみた。一つは、東京帝国大学という伝統に、外部からの革新を非常にうまく織り込んだということである。学科によってやり方は違ったようだが、電気は瀬藤先生のご出身ということで、モデルになった。教授の年齢順に上から第一、第二と完全に二分した。細胞分裂、今でいうクローンに似ている。全く同じものをもう一つつくるときに、これが一番いい。しかし先生の数は半分になるから、あとの半分は主として産業界から人材を入れた、最近は産業界から大学に入られる方も多くなったが、当時としては画期的なことだった。工学というのは生産の現場から切り離せない。そういうことをよく知った先生方が来て下さって、産業にも目をくばった教育を受けられたのは幸せだったと思っている。学生の方は戦時中のことで入学試験はなかった。それぞれの高等学校の実績に応じて枠が配られたと聞いている。それで高校から提出されたリストの順番で、機械的に第一、第二と配ってしまった、おかげで私は毎日本郷から東大の前を通って、千葉に通うはめになってしまった。

 講座も旧来の分類にかかわらず新しい分野を積極的に取り入れた。例えば従来は切削加工が主だった機械加工の分野に、非切削加工学という講座が日本で初めて出来た。塑性加工の学理の究明は、戦後時計のひげぜんまいの線引き、鋼板の冷間圧延などで大きく開花した。

伝統と革新の融合 新しい学問分野
細胞分裂的クローン形成
産業界からの人材注入
塑性加工など

 表2: 第二工学部の特色

第二工学部キャンパスは千葉県が急遽整備した西千葉の十五万坪の土地に定まった。通勤通学の便をはかって、キャンパスの南縁に沿った総武線に西千葉駅、やや海よりに平行する京成電鉄に帝大工学部駅(現在のみどり台)が新設された。その配置図を図1.に示す。当時のことであるから、木造二階建で数十棟が建てられた。写真②は本部事務棟、写真③は冶金教室の写真である。現在この敷地は千葉大学のキャンパスになっているが、北側の約三万坪は生産技術研究所の千葉実験所として、溶鉱炉、大型振動台、水槽などの大型研究施設が設けられている。

図1-第2工学部配置図

図1. 第二工学部配置図

写真2ー本部事務棟

写真② 本部事務棟

写真3-冶金教室

写真③ 冶金教室

設置がきまった年に戦争が始まり、資材など全部軍に抑えられて入ってこない。瀬藤先生は、そういう困難があると、ますます張り切ってやられるような方で、大蔵省でも、陸軍でも、海軍でも、ご自分で乗り込んでいって正論で説得される。向こうの担当官から、学部長が先頭に立って来るのだけはやめてもらえないかと事務のほうに申入れがあったと言われている。そのおかげで、当初の要請通り一年後には開学にこぎつけられた。

4. 第二工学部の閉学と生産技術研究所の誕生

戦争が終わって少し世の中が落ち着いてくると、いろいろな分野で組織の再編成が始まった。東京大学の場合には、戦時中工学関孫の学部は非常に膨脹したけれども、その分法文系は割りを食っていたという意識があった。戦争が終わったので、戦争のためにつくった第二工学部は廃止して、その講座を全部法文系にまわしてくれという話が出てきた。これは学内だけに大変難しい会議が何度も続いたとうかがっている。瀬藤先生が公式の会議の席上で「戦後の復興のために優秀な工学者をたくさん出さなければいけない」と言われたのに対して、「そういうお題目は壁に向かって言え」とまで言われたという。それでいろいろな案がでたが、最後に生産技術研究所という新しい研究所をつくろうというところに落ち着いてきた。ところが当時は占頷下で連合軍総司令部(GHQ)が超法規的に君臨していた。その中でも経済科学局長のケリー博士が、これは今で言えば総理大臣より権限があったと思うが、いろいろな組織の再編成に采配をふるっていた。東京大学には戦前から航空研究所というのがあり、戦後航空の研究が禁止になったので、理工学研究所と改名していて駒場のキャンパスに残っていた。生研はそれと似ているところもあるから一緒になれというのがケリー博土の意見であった。瀬藤先生は歴史も違うし、航研というのはサイエンス.オリエンテッドで、工学を主体とする生研とはミッションが達うのだということを、ケリー博土に執拗に説得に行かれた。先生が後年回顧録に「渋々承諾してくれた」と書いておられるが、先生の熱意なくして、現在の生産技術研究所はなかったであろう。

ケリー博士が第二工学部を視察に来た日のことを、私は当時大学院学生であったが、よく覚えている。先生は前夜から下痢をされて高熱であったにもかかわらず自ら先頭に立って、隅々までケリー博士を案内された。私は、指導者というのはこういうものかと非常に深い感銘を受けた。

1951年3月第二工学部は閉学した。写真④には正門の表札をとりおろされる瀬藤先生の姿が写っている。先生は後に「私は第二工学部を作れといわれ、全力をつくした。またその私に第二工学部を潰せといわれた」といわれ、その日平賀前総長の墓に詣でたことを涙して諮られたとうかがっている。生産技術研究所は1949年5月31日に発足した。国立学校設置法が改正されて、その附則のところに書込まれたわけである。これは法規上のことで、開所式は十一月にやっている。写真⑤はその表札が架かった正門である。これは単なる看板の架け替えではなかった。瀬藤先生はいたずらに過去のことを嘆くことなく、眼を前に向けて今まで日本になかったような新しい研究所をつくろうとされていた。六月十日に、瀬藤先生が生産技術研究所開設にあたって職員にされた告示というのが残っている。「国土狭小、天然資源貧弱のわが国で工業生産の増強を図るには、高度に工業技術を活用しなければならない。しかるに日本の工学と工業とは別々に発達し、互いに密接に達携したものは少ない。工学と工業との実際の結びつきを行うことを生研の使命—」と言われている。私は今でもこれはいささかも変える必要のない大事な指針ではないかと思っている。

写真4-第2工学部閉学の日

写真④ 第二工学部閉学の日

写真5-生産技術研究所の表札をかかげる正門

写真⑤ 生産技術研究所の表札をかかげる正門

 それだけではなくて先生は、そのあとのほうで、「大学院制度や研究生制度を実施して、優秀な人材を世の中に送り出すこと」とも言っておられる。これはなかなか難しい課題であった。当時の大学院はいわゆる旧制であって、なかなか研究所が教育に手を川せる環境ではなかったのである。幸いにして新制大学院が発足して、現在生研には七百名をこす大学院学生が研究に励んでいる。学部としての教育はできなくなったが、大学院教育でこの先生のご指示にもかなり応えられるようになったことは喜びである。

Z会一代記/武安義光(Z会世話人)

東大電気工学科
昭和16年12月卒業生の歩み

平成23年1月

目 次

 まえがき

 第Ⅰ部 入学から卒業まで
      こぼれ話①、②、③、④、⑤

 第Ⅱ部 戦中の活動

 第Ⅲ部 戦後編-会員の新たな活動の足跡
      思い出

 第Ⅳ部 会員の現況

 むすび

 -付記-

 まえがき

私たちが東大電気工学科に入学し、同期生として初めて顔を合わせたのは、今から70年余り前の昭和14年4月であった。この際それからのお互いが過ごしてきた人生と社会、お互いの絆を顧み、記録したいと思った。

まず私たちの入学した時代を顧みると、昭和12年に始まっていた支那事変がすでに長期化し、国内では戦時色が濃くなっていた。入学した年に欧州での大戦が始まり、この影響を受けた日本は戦争への歩みを早めて行った。

さらに卒業した昭和16年12月は、日本が大東亜戦争に突入した月である。昭和14年4月に入学した私たちは、本来翌年3月に卒業する予定であったが、時局の緊迫化に伴い16年夏に、すべての大学・高専の学生の卒業繰上げが決定されたのである。

そして卒業した学生は一応社会で就職したのであるが、大部分の者は徴兵制度により直ちに軍務に服することになり、軍隊教育を受けた多くの若者が戦地に赴く苛烈な運命を甘受せざるを得なかった。その中にあって電気工学科卒業生は、陸海軍の必要とする技術系要員として多くの者が活用され、専門を生かせる処遇を受けたので、法文系を主とする一般学徒より、戦争による犠牲者は少なかった。

昭和20年の敗戦後、お互い軍務を終え、本来の仕事に戻ることになった。この中で戦陣に倒れた者、帰るべき職場を失った者、外地にあって復員が遅れた者も多い。しかし敗戦に伴う経済・社会の混乱と貧困の中、多くの仲間は立ち直り、若手技術者としての誇りを持ちつつ、それぞれ戦後の復興のために働いた。我々は後に達成された日本の国民経済の発展のために大きな役割を果たしたと胸を張っていえる世代である。

我が同級生も近く卒業後70年を迎え、残った者はいずれも卒寿といわれる年になった。仕事も終え余生を楽しむ年代であり、健康を損ねている者も多い。ここで我々が過ごしてきた社会と会員の歩みを総括し、記録として残したいと思い立った。これがこの小文の目的である。

 第Ⅰ部 入学から卒業まで

我々の育った昭和初期の社会を顧みて

我々は大正中期に生を受け、昭和の前期に学校時代を過ごした。昭和の初期は、世界大不況の影響を受け、日本経済は不振の時期であり、特に農村の困窮は著しいものがあった。社会では血生臭いテロが相次ぐ時代でもあった。軍部の動きによる満州事変が始まり、満州国の建国、満州への経済進出が始まる。

大陸への進出に伴って、中国との摩擦が増大、事変と呼ばれる大陸での戦いが始まっていた。この間軍備の充実が叫ばれ、産業は刺激を受け、満州への工業進出、重化学工業の振興が進められた。

こうして昭和10年代の日本経済は、準戦時体制へと進んだ。「国家総動員法」が制定され、統制経済の時代に入っていく。

技術者の需要増加に対応するため、昭和14年より卒業生の就職先の「割当制」が行われた。いわば人間の切符制が始められていた。

工学部学生の増加募集行われる

昭和13年の秋、翌年の春の高校卒業を控え大学進学を目指す者にとっての朗報が伝えられた。それは社会の必要に対応して、「理工系の学生募集人員を増加する」というものであった。東大工学部では、土木・建築学科を除く各学科の募集人員が増加された。

電気工学科においては、それまでの定員35名が、5割増の53名になると伝えられた。

難関の入試を経て53名の合格者決まる

当時東大の入試の受験は、全国の35の旧制高等学校の卒業生に限られていた。

工学部志願者は全国的に増加が著しかったが、東大電気工学科は3倍余の競争率で、最難関の一つとされていた。こうして昭和14年の春を迎え、入学志願者の募集が行われた。

筆者は恐れ気もなくかねての希望に従い、東大電気工学科を志望した。締切り後の志願者は前年を上回る120名余りであったが、増員のお陰で競争率は前年を下回る二倍半程度であった。

3月10日ころ、2日にわたる工学部の入試が行われた。科目は「数学(力学を含む)」・「図学」・「物理」・「化学」・「外国語(英・独・仏の中の選択)」・「身体検査」であったと思う。10日ほど経って発表があり、53名のクラスメートが決まった。競争の倍率は緩和されていたが、前年までの激戦を反映して、現役からの受験者には狭き門で、ストレート組の合格者は22名(受験73名)、過年度の合格者29名(受験49名)という構成である。

入学者を高校別に見ると、一高(東京)が群を抜く11名、続いて六高(岡山)6名、あと4名が八高(名古屋)と筆者の母校武蔵高が並んでいる。このほか全国の14の高校出身者と他の学科からの転科者でクラスメートが構成された。

こぼれ話①

ここで試験問題の例を紹介しよう。

【外国語】 和文欧訳の問題、「次の文章を英、独、仏のいずれかに翻訳すべし」。 「新聞紙上の言論は、輿論を代表するが如く見ゆるも、其の實は却て一記者の私見たるに止まること多ければ、之を読むもの注意を要することなり」 (以下3行略)
【物理】 (1)Boyleの法則を気體運動論に依って説明せよ。
【数学】 (3)次の積分を求めよ。

入学からの学生生活

安田講堂での入学式で、平賀 譲総長(海軍造船中将)の訓示を聞いたあと、教室においてオリエンテーションがあり、新しい学生生活が始まったのは昭和14年4月であった。さすが全国から集まった俊英揃い、立派な人々であった。学科主任は大山教授、西教授が最長老であった。

当時の帝大生の服装は入学時の記念写真で見られるように、旧制高校時代の弊衣破帽は卒業しており、黒の詰め襟服に金ボタン、角帽姿で、現在の学生とは大分違っている。エリートの書生姿と言えるものであった。(名前が判別できない者4名…花形・藤沢他)

教養科目はすでに旧制高校において済ませており、学科は専門の基礎学科から始まる。いくつかを挙げれば、「電気磁気学(福田助教授)」・「電気測定法(鳳講師)」・「交流理論(山田助教授)」・「電気機器学(瀬藤教授)」などがある。また「応用力学」・「機械工作法」・「熱機関」などは、航空・船舶・機械などの学科と共通受講であった。こうして一年目の大学生活が始まった。

学科は午前で終り、午後は実験に充てられた。当時の学生は8時からの講義に、皆小さなインク瓶を持ち、ペンでせっせとノートを取った。今のようにコピーの機械など無いから、休んだり居眠りをすると後が大変だった。明治時代の建築と思われる実験棟で、週3日は電気の実験があり、製図一日、また学生増加から数学演習か工業分析実験のいずれかが課せられた。

午後4―6時は選択科目があるが、現在と違い週一回「軍事教練」の時間があった。これは選択科目扱いであったが、受けていないと軍隊に入ったとき幹部不適格とされ、将校への道が閉ざされる事になるので、時局を思うと選択することになる。大学1年の時は学科だけで、戦史などの話を適当に聞いていれば良かったが、2年目に入ると三八式歩兵銃を持っての術課が行われるようになった。秋には那須の方の演習場に行っての野外訓練まで行われた。工学部の連中は皆仲間意識があるから、結構気分が変わって兵隊ゴッコを楽しんだ思い出になった。

大学2年目になると、ほとんどが専門科目になり、忙しい生活が続いた。筆者は高校時代からの剣道を続け、入学前年に竣工した「七徳堂」に通った。かなりの実力を蓄えたが、暇のある法文系の学生が羨ましかった。

とにかく忙しい学校生活が3年目の7月まで続き、しっかりと鍛えられたと思う。この間土曜日の午後などを利用しての工場・研究所などの見学のスケジュールも組まれた。2年の秋、教学の実態視察ということで、昭和天皇の大学への行幸があり、当時のことであり大分緊張したことが、思い出される。

この年は皇紀2600年に当たり、国を挙げての祝賀ムードに包まれていた。国内経済は好況で、国内生産も戦前のピークを記録した年でもあった。欧州ではドイツが大陸を席巻したが、日本は日独伊の三国同盟に加盟の道を選び、支那事変は泥沼状態、戦争への道を歩み始めた年でもあった。

この年、日本は東京でのオリンピック招致に成功していたが、実行できる世界情勢では無かった。しかし大学の教育は予定に沿って続けられた。学生も真面目に学業に取り組んでいた。

こぼれ話②

米の配給制が始まっていたが、学内食堂料金は朝食10銭・昼食15銭だったのが少し値上げされ、質も低下したが、米飯のお代わりは自由だった。

時局の急展開と卒業の繰上げ

当時の電気工学科の教育スケジュールは、第3年度の7月で授業・実験を終え、夏から秋にかけて現場実習、秋口から卒論に取り組み、これを仕上げて3月の卒業に至るというものであった。

我々は大学側での準備に基づき、夏の実習プログラムを選び実習先を決定した。実習先は国内各地の現場に及び、この年起こった日食観測の手伝いで、台湾や事変中の中国の揚子江を上り漢口に出かけた者もいた。

筆者はまず三菱電機・神戸製作所で1カ月、8月末から逓信省工務局の神奈川県下での同軸ケーブルの実験に、クラスの数名とともに参加することになった。

昭和16年(1940年)に入って世界の情勢は急展開した。すでにソ連と不戦条約を結び、欧州の大半を占領していたドイツが、6月にソ連に侵攻し戦いを始めたのである。

一方ソ連と中立条約を結び、支那事変の解決を図り、南進の機会を窺っていた日本軍部は、ソ連を叩くチャンス到来と、大動員をかけ満州に兵力を集中した。これは関東軍特別大演習(関特演)と呼ばれ、国内は準戦時状態となり輸送力確保のため、夏の学生のスポーツ大会は一切中止となるなど緊迫した情勢になった。満鮮への実習計画も流れたはずである。この作戦はさすがに無理があり実現に至らなかったが、軍部の南進への勢いが強まり、南部仏印への兵力派遣を強行、米国との関係は決定的に悪化の道をたどった。

このような情勢の中、実習は一応計画通り進められ、筆者の第一期の工場実習は予定通り終り、8月末からの第二期実習に取り組んだ。逓信省本省、横浜にある出先などに挨拶回りをし、いよいよ工務局先輩技師の指導の下、実験を始める9月初めであったと思うが、大学から「卒業が3カ月繰り上げられるから、実習を中止して戻り、卒業研究に取り組むように」との指令を受けた。こうして実習を中断し、それぞれ教室に帰り、12月の卒業に備えることになった。

卒業に当たっての就職先の決定

さて卒業研究に取り組む一方、卒業に備えて就職先を決定することになる。当時理工系の大学卒業生はすでに割り当てになっていたことは先に触れた。各人の希望、企業などの方針、大学の推薦などが交錯しつつ、クラスメートの就職先が決まって行った。決まった52名の就職先は次の通りである。―佐波君の資料による―

大学・研究所など

瀧 保夫・斉藤成文(東大工学部)
前田 稔(名古屋帝大)
藤井亮一(京城帝大)
飯島健一(中央航空研)
三輪高明・百田恒夫(逓信省電気試験所)

官庁など

栗山国雄(逓信省工務局)
後藤誉之助・武安義光(逓信省電気庁)
粂沢郁郎・澤野周一(鉄道省電気局)

国内電力会社

花形 澄・松岡 実(日本発送電)

通信・放送

尾上通雄(放送協会)
川島 浩・河津祐元(国際電気通信)

電機メーカーなど

佐波正一・杉下和也(東芝・芝浦支社)
西島輝行(東芝・マツダ支社)
高林乍人・中島俊之(日立製作所)
須藤卓郎(日立中央研究所)
鷲尾信雄・加藤又彦(三菱電機)
町原 熙 (明電舎)
小松改造・藤沢喜行(住友電工)
塙 宜良(古河電工)
庄司徳三(藤倉電線)
今野与八(東京電気)
日下部正直・小平信彦(日本電気)
楠 順三(沖電気)
平野宰次(日本無線)
村橋秀雄(ビクター)

一般工業など

岡本明修(東京航空計器)
久保原 弘(東洋高圧工業)
牧野六彦(日本軽金属)

陸海軍関係

西山 実・星埜 衛・湯原仁夫(陸軍)
阿部英三・奥村 宏・新堀達也・高橋祐夫・角 豊三(海軍)

外地企業

市川真人・大森 豊(鴨緑江水電)
森重太郎(崋北電業)
盛定義安(西鮮合同)

就職先を展望して

大学関係、官庁研究所、逓信省・鉄道省などの行政官庁などは例年卒業生が送り込まれている就職先である。数年前の電力国家管理が行われた電力業界には、国策会社の日本発送電(株)だけで少ない。そのあとの通信会社、電機メーカーの大手会社には、例年のごとく多数が就職している。

目立つのは陸海軍に8名が就職していることであろう。これはすでに在学中に委託学生として採用された者と、研究所などに入った者とがいる。また外地の電力会社に4名就職しているのも、時局を反映している。

ただ我々は卒業後、軍に就職した以外の者は、ほとんど職場で過ごすことなく軍隊に入る結果になり、そこが当面の就職先になるという運命をたどったのである。

大東亜戦争の開始と、繰上げ卒業まで

さて我々は、それぞれ各教官の指導のもと卒業論文の課題に取り組んだ。そしてまとめの最終段階に入った12月8日「英米との戦争状態に入った」とのニュースに衝撃を受けたのである。真珠湾攻撃を始め、南方各地の作戦が順調に進んでいるとの発表に落ち着きを取り戻し、論文の仕上げ、卒業を前にした行事への対応を進めた。

12月27日に安田講堂で全学の卒業式が、初めての父兄も出席して行われた。平賀総長の告辞があり式は簡単に終わった。工学部卒業者は一同一号館で乾杯が行われた。さらに電気工学科の者は三号館に戻り、西先生より卒業証書を受けて行事を終えた。

戦時下の卒業という前途への希望と先行き不安の交錯した複雑な気分の中、お互い共に学んだ日々を思い出しつつ、学窓と友人に別れを告げて散って行った。いずれも20歳代前半の若者であった。

クラス会を「Z会」と命名

ここで我々のクラス会が「Z会」と名付けられた所以を述べておく。

第一のものは、我々が初めての戦時の繰上げ卒業で、大学生活を3カ月短縮されている。当時支那事変下で、電気機器の工業規格で、温度上昇などの条件を緩和する暫定規格が、工業界で作られ「Z規格」とされていた。これを取り入れ、準戦時下の就学期間の3カ月短縮は、まさにZ規格ではないかと、少しく僻みと自嘲を取り入れた名前であった。

第二のものは、我々は大東亜戦争開始の超非常時に世に出ることになったことで「Z旗」から名付けたとする。Z旗とは日露戦争の最後の海戦で、欧州から回航してきたバルチック艦隊を対馬沖に迎え撃った連合艦隊が、出陣に当たり旗艦三笠に掲げた信号旗として有名であり「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という内容であったが、今次大戦に当たり出撃する海軍連合艦隊は同じくこのZ旗を掲げて激励したと伝えられた。

開戦直後の卒業となる我々のクラス会の名には、時局を反映した以上の二点を取り入れての命名がふさわしいということで決まったものである。ただし誰が言い出し、何時決まったかは、明らかでない。開戦後の短い期間に決まったのであろうが、70年にわたって用いられてきている。

こぼれ話③

11月下旬に溯るが、一夕工学部の学友会である「丁友会」が主催しての卒業生壮行会が行われた。余興として映画のほか、当時世界的にも名の通っていた高名の歌手・関屋敏子の独唱が披露され、一同聞き惚れた。同じく当時子役として売り出していた中村メイ子が出演し、チョコチョコと舞台を駆け回って皆を喜ばせた。ところがその日の夜半、関屋敏子が自ら命を絶ったという報が、我々を驚かせた。理由など明らかにされなかったが、卒業を控えた一同ショックを禁じ得なかった。

こぼれ話④

この度改築のため姿を消す工学部三号館は、我々の在学中に新築され移った。7頁の写真は入学時に教室のあった一号館前で撮ったものと思う。

こぼれ話⑤

時局を反映して国が行う体力検定の制度があり、大学でもグランドで検定が行われた。主に運動部の連中が受けた覚えがある。種目は百米走・走り幅跳び・二千米走・懸垂運動・俵担ぎ走・手榴弾投げの六つ。それぞれをクリアするとタイム・距離などの基準に応じて初・中・上級の資格が取れ、確かバッジを授与された。バランスの取れた能力が必要で筆者も挑戦したが、手榴弾投げがやっと三十米、懸垂の回数が及ばず、初級を頂戴するに止まった。

 第Ⅱ部 戦中の活動

多くが技術将校として活動した ―3名が戦没、1名が殉職した―

昭和17年を迎えて、我々は社会に出たのであるが、先に述べたように、大部分の者が勤め先には顔を出しただけで軍務に服することになった。陸海軍の現役を就職先として選んでいた者のほか、多数が「短期現役技術将校(2年現役)制度」を志願して採用されており、数カ月の軍隊教育を受けて、陸海軍の技術将校として勤務することになっている。

不幸にして次に掲げる友が戦没している。(以下敬称を省く)

高橋祐夫は海軍委託学生に採用されており、ただちに任官、工作艦明石に乗り組み勤務、昭和19年3月30日西カロリン群島パラオ島付近で対空戦闘中戦死した。(海軍技術少佐)

岡本明修は陸軍兵技将校として「兵器行政本部」・「朝鮮軍司令部付」・「支那派遣軍司令部付」・「陸軍船舶練習部教官」を歴任、電波兵器関係の業務に従事したが、病に冒され昭和20年6月11日、広島陸軍病院にて戦病死した。(陸軍技術大尉)

前田 稔は陸軍兵技将校として陸軍技術研究所に勤務、電波兵器関係の業務に従事したが、沖縄の防空関係の部隊に転勤、昭和20年6月7日沖縄において戦死した。(陸軍技術大尉)
以上の三方はいずれも靖国神社に祀られている。

栗山国雄は逓信省工務局に就職した。現在のNTTの前身である。戦争末期に富士山頂に無線機器設置のため滞在中、高山病のため昭和20年7月6日亡くなった。富士山頂に殉職記念碑があるとのことである。

戦争中の同期生の活動

最初に従軍を免れた友の活動から始めたい。

滝 保夫は病気で一年卒業が延びたが、東大工学部に残り、無線関係理論を専門として終始教育・戦時研究に没頭して業績を上げた。

陸軍兵技短現に採用されていたが、昔の病跡で即日帰郷となった後藤誉之助は電気庁に戻って勤務したが、その後、在北京の興亜院に出向、終戦直前に運よく大東亜省に復帰し、先輩の大来佐武郎(昭和12年東大電気卒)のもと調査局で、敗戦後を見据えた日本の復興策を練り、新たな進路において、戦後の飛躍の基を築いた。

松岡 實も召集されたが、胸部の病気が発見されて解除になり、就職先の日本発送電(株)に勤務して戦後に至った。

河崎太郎は華北電業に赴任。終戦まで火力発電所の業務に従事した。このほか軍務を免れた者もいると思うが、健全な者はすべてといってよいほど従軍し、多くが技術者として活用されている。

海軍組の活動 技術者を大事にしたといわれる海軍から始める。

阿部英三は海軍委託学生として進路を定めており、横須賀海軍航空技術廠において勤務した。

楠 順三は二年現役として任官、横須賀海軍工廠に終戦まで勤務、無線・電気関係の装備などの業務に当たった。

斎藤成文も二年現役で任官、海軍技術研究所に配属、マイクロ波レーダーの開発に従事、後に日本海軍最後の艦隊となった、第二艦隊司令部付きとなり、リンガ泊地で二二号電探の指導を行った。その後航空機用電探の開発に当たり、三沢航空隊で一式陸攻に装備されたパノラマ式レーダーの実験を行うなどして終戦に至った。

海軍に就職した中村欽雄は横須賀海軍工廠勤務で、文官から武官になり、電波探知機・磁気探知機の研究・開発に従事した。

奥村 宏は海軍技術研究所に就職、終戦まで電波兵器の研究に従事した。

杉下和也は海軍技術研究所において、潜水艦用の電探の研究に従事、戦後の導波管回路理論の発展に貢献する成果を挙げている。

このほか河津祐元日下部正直新堀達也鷲尾信雄も海軍の技術士官として活躍している。

陸軍航空組 陸軍航技短期現役将校に進んだ者は、筆者を含め7名であった。就職先から早々に、1月10日水戸市の北にあった水戸陸軍飛行学校に入隊、訓練を受け5月初めに航技中尉に任官した。大卒・高専卒ほぼ同数の合計200名足らず。

小松改造はそのまま水戸陸軍飛行学校、久保原 弘は陸軍航空士官学校に配属され、教育に従事した。

加藤又彦は西満の白城子陸軍飛行学校に配属された。ここは陸軍の落下傘部隊の訓練などが行われた所、筆者の勤務した同名の航空修理廠分廠からは3―40粁離れていた。一度訪問して顔を合わせる機会を持った。

牧野六彦は航空本部で監督官、軍需省調達官として活動。苦労した。

佐波正一も遅れて航空技術に参加、陸軍航空士官学校教官として通信技術の教育に当たった。

武安義光は、西北満のチチハルに近い第九野戦航空修理廠付きとなり、南下して白城子分廠に配属された。翌年秋、南方ジャワ島バンドン市に新設の第20野戦航空廠に転任、終戦まで航空機整備、現地自活、工業学校生徒の技術教育などで働いた。1年後の電気卒の篠原一俊氏と一緒になった。

飯島健一中島俊之は不詳。

陸軍兵技組 最も多くのZ会メンバーが進んだ。

市川真人は大宮市の陸軍造兵廠で勤務し、ここで終戦を迎えた。

小平信彦は任官後、陸軍船舶司令部(広島市宇品町)で勤務。輸送船の無線機、対潜水艦探知機等の整備に従事。命に別条のない至近距離で原爆を見た。原爆被爆者である。

今野与八は任官後、東満東安の野戦兵器廠に赴任、終戦まで勤務、終戦後の混乱の中で苦労を重ね、28年まで現地で仕事をして帰国した。敗戦で一番苦労した級友であった。

澤野周一は陸軍技術研究所で勤務。三鷹で終戦。

須藤卓郎は満州・四平街の陸軍の学校に勤務した。筆者は昭和18年出張の折に訪ねて旧交を暖めた。後に内地に転勤されたはずである。

高林乍人は千葉にあった防空学校の教官として勤務した。

西島輝行は陸軍第五技術研究所勤務の後、陸軍予科士官学校教官を務めた。

西山 実は陸軍委託学生から東京第一陸軍造兵廠大宮研究所に勤務、電子顕微鏡の研究に従事、その後満州の関東軍造兵廠に勤務して、終戦を迎え苦労を重ねて帰国した。

平野宰次は陸軍防空学校関係で勤務して終戦に至った。

藤原一夫は戸山が原の第七陸軍技術研究所において、ノクトビジオンの研究に従事、終戦に至った。

三輪高明は任官後多摩陸軍技術研究所において、電波警戒機の開発に従事、昭和19年には修理班長として、スマトラ、ビルマなどを転戦、帰国後は船舶用の警戒機の調整に従事して終戦に至った。

村橋秀雄は兵技中尉に任官後、第三航空軍(在シンガポール)に配属され、南方地区の航空基地へのレーダー設置・整備に当たり、終戦まで勤務し、抑留されて昭和22年8月に帰国した。

盛定義安は満州、関東軍野戦造兵廠勤務となり、終戦後ソ連に抑留され、昭和23年に帰国した。

藤井亮一は任官後小倉造兵廠に勤務した。従軍中の自動車事故により、腰を痛める重傷を負ったとのことであった。

湯原仁夫は委託学生となり陸軍に入った。兵器行政の分野で活躍したと思う。昭和19年秋、出張で筆者の在勤地ジャワ島バンドンに立ち寄った際、旧交を暖めた。帰国に大苦労、命からがらたどり着いたと聞いた。

星埜 衛も陸軍委託学生から任官。

町原 熙は満州ハイラルに勤務、2年後南方の豪北ハルマヘラ島の部隊に転属し苦労を重ね、終戦に至った。

記録補充を要する者

上田克也、尾上通雄、川島 浩、粂沢郁郎、塙 宜良、花形 澄、藤澤喜行、森重太郎

 第 Ⅲ 部 戦後編―会員の新たな活動の足跡

Z会は戦争で4名の友を失った。しかしその他の多くは軍務から解放され、既に軍務を免れていた者と、それぞれの人生に向かうことになった。しかし陸海軍に直接就職していた者、敗戦により禁止された航空関係の仕事、外地の企業や大学に就職していた者は、いずれも帰るべき職場を失った。その数は前記の就職先について見ると14名になる。

また軍需に依存していた企業で、事業の極端な縮小を行った者、戦災により勤務困難な者、外地にあって帰国が遅れたりして、実質的に復職できなかった者もいる。

しかし多くは日本復興のため、またそれぞれの人生の構築のため、戦後の困難な生活環境の中、歯を食いしばって活動を始めた。

官庁エコノミストとしてまず名を挙げた後藤誉之助

後藤は戦後外務省から、新設の経済安定本部に移り、大来佐武郎の下で経済調査を続け、毎年の『経済白書』の作成に携わった。後に調査課長となってからは、自ら主筆として完成した昭和31年度の白書の主題として掲げた「もはや戦後でない」の語は、広く社会にアピールして流行語になり、後藤の名とともに世に残されている。

その後、初代の景気観測官としてワシントン在米大使館に勤めたが、この時期から健康が思わしくなかったのであろうか、帰国後昭和35年に急逝した。大来氏のその後の活躍を見るにつけ、惜しい人物を失った感が深い。

思い出

彼は警句が得意だった。正門前から一緒に市電に乗ろうとしたら、電車がサッサと出ていった。後藤曰く「畜生『シリーズ』にして行ってしまいやがった」と。当時の彼はやはり電気屋であった。

学界・教育界で活躍した人々

本郷の第一工学部にいた滝 保夫は、戦後実現が目前に迫っていたテレビジョン放送に関する基礎から信号方式、雑音ならびにテレビ信号の符号化など幅広い研究を「電気通信学会」、新設された「テレビジョン学会」の中核の一人となって大活躍した。その功績により、2学会の功績賞を受けたほか会長も務めている。また「電波の日」郵政大臣表彰、日本放送協会文化賞を受けているが、ハイライトというべきは、日本のテレビの生みの親・高柳健次郎先生を記念する「高柳記念賞」を没後受けるという、異例の表彰を受けた。また教育者として数多くのテレビ関係技術者を世に送り出している。東大定年後は理科大学に移り、工学部第一部長を、また定年後請われて基礎工学部新設に尽力、学部長も務めている。

ある友人彼を評して「暖かくてノーブル」といった。70歳を前にして世を去られたのが惜しまれる。

齋藤成文は千葉の第二工学部に戻り、教育に打ち込んだが、組織の改変により、生産技術研究所に改組されてからは、戦前から引き続いてのマイクロ波通信、特に宇宙通信に不可欠な低雑音受信の研究に打ち込んだ。宇宙開発が始まると鹿児島県内之浦での打ち上げの仕事にも携わった。日本初の人口衛星「おおすみ」の打ち上げを始め、多くの科学衛星の開発などを手掛け、日本の宇宙開発で大きな役割を果たした。政府の宇宙開発委員会委員にも就任し、行政にも参画した。これら我が国の宇宙開発初期の自らの体験を『日本宇宙開発物語』及び『宇宙開発秘話』(三田出版会)として執筆した。平成10年には宇宙電子工学への貢献により、文化功労者として顕彰される栄に浴した。

市川真人は戦後九州工大から、名古屋大学に移り、電気加熱の分野で活躍、日本電熱協会会長も務めるなど、電熱技術の地位確立に努めた。定年後は国立豊田工専の校長として育英に当たった。

同じく名古屋出身の角 豊三は、戦後海軍から転じて神戸商船大学に職を得たが、昭和36年埼玉大学に工学部電気工学科が設けられることになり、推されてその専任教官に移り、学科の整備、教育に熱心に取組み大きな成果を挙げた。

楠 順三も戦後は東京商船大学の教官として、教育に打ち込んだ。

中村欽雄は海軍に就職していたが、戦後電機工専に就職(後に東京電機大学)、教育に尽力した。電気通信工学科の主任・工学部長・短期大学学長なども務めた。年配になって卓球に打ち込み、年配者の大会に出て、内外で大活躍をしたそうである。

飯島健一は横浜大学で、また日立製作所研究所から転じた須藤卓郎は法政大学工学部教授に転身、同じく日立製作所から転じた高林乍人は、三重大学教授から熊本工大で教育に打ち込んだ。

次に研究分野の人々に移ると、俊才が集っていた逓信省電気試験所は戦後機構が変わったが、ここに入った百田恒夫は終始工業技術院電子技術総合研究所で勤務し、所長も務めた。電熱部門が専門で活躍した。

三輪高明は戦後電気試験所に復職し、昭和24年に電機関係と分離して、電気通信省の傘下になり、マイクロ波電子管の研究に従事、その後通信研次長を経て退職。(株)富士通研究所に勤務、53年所長を経て、54年富士通化成(株)に入り、社長を経て63年退任した。

小平信彦は復員後日本電気に戻らず、国立気象研究所に入り、気象衛星の開発分野に進んだ。衛星研究部が新設されるや、小平は部長に就任した。昭和55年に気象研を退職後、(財)リモートセンシング技術センターに移り、マイクロ波による地球観測衛星のデータ処理とその普及の仕事を開拓し、この分野における先駆者となっている。

官業としての鉄道に入り、鉄道の交流電化の分野で大きな役割を果たした者に澤野周一がいる。澤野は鉄道省に入ったが、工作局で電気車両関係の仕事に従事した。とくに交流電化が始まりその推進、新幹線計画の推進などに重要な役割を果し、国鉄副技師長で退職。昭和43年に(株)東芝の交通事業部に入り、首席技監で53年退職、(社)海外鉄道技術協力協会に入り常務理事を務め、海外各地で業務に当たる。鉄道動力近代化の流れの中、大きな役割を果たした。この間に紫綬褒章、勲三等の叙勲。

粂沢郁郎は国鉄に復帰後、技術研究所に移り、新幹線計画が始まると、初代電気線研究室長として架線、集電装置(ダブルカテナリー)の分野の研究で役割を果たした。後に東京電機大学に勤務した。

湯原仁夫は陸軍から復員後、電波研究所に入り、最後は所長を務めた。

尾上通雄も放送協会に就職していたが、電波研究所に勤めている。

電気事業に従事した者は少なかったが、松岡 實花形 澄は日本発送電(株)に入り、昭和26年の電力再編成で東京電力に移った。その後同社において終始電気事業の技術部門の運営に尽した。松岡は電力技術一般に従事したが、超高圧の地中送電に苦労して実現を進めた思い出を持つ。常務取締役に進んで退任し、電力九社の共同研究所の立場にある(財)電力中央研究所専務理事を務め、昭和61年より通産省の外郭団体である新エネルギー・産業技術総合開発機構という長い名前の特殊法人の理事長を務めた。この間電気学会会長に推されたし、勲二等の叙勲にも浴した。

花形は東京電力では給電、電力の総合需給の分野で働き役員となったが、のちに関係会社の社長・会長を務めた。

藤井亮一は復員後九州電力に入社した。電気事業連合会勤務なども経験したが、常務取締役を経て退任した。

電機メーカーに入った者の活躍

この分野には最も多くの人材が活動している。まず挙げるのは(株)東芝に行った佐波正一である。主として重電機の畑を進み、昭和45年取締役になり、その後昇進して55年社長、続いて61年会長に就任している。技術出身の経営者として、経団連副会長、その他多くの役職を務めるが、国際派でもあり、海外とのつながりも多い。平成2年勲一等の叙勲に浴した。

同じく東芝に入った西島輝行は送信管から半導体と進み、取締役を経て副社長に就任した。いくつかの工業会の会長も務めた。

若くして亡くなった杉下和也も戦後東芝に復帰、整流器に取り組み、将来を期待されたが、惜しい人材を失った。

今野与八は戦後中共に抑留され、昭和28年に帰国し、30年より東芝に入り電子管の製造に従事、43年より国立木更津工専において教職につき定年に至った。

河崎(森重)太郎は戦中は華北電業で勤務したが、帰国後は大分県の故郷で農業に従事後、電業社に入り水力発電機器の製造に従事し、昭和51年に東芝に合併していた同社を退職、関連会社に在籍して引退した。

三菱電機には、鷲尾信雄加藤又彦が就職し、復員後勤務した。牧野六彦は戦後入社し、その後プリンス電機、日本真空電気に勤務、主として電球関係の製造・販売の業務に終始した。

日立製作所に就職した須藤卓郎は、中央研究所・家電研究所・本社技師長を経て、前記のように法政大学教授になった。高林乍人は日立大甕工場から日立研究所で重電関係で活動、昭和47年より三重大学を経て熊本工大での教職に進んだ。

電線関係に移る。住友電工には小松改造藤沢喜行が入った。小松は通信ケーブルの領域で活動、光ファイバーの立ち上げにも努力した。セールスエンジニアとして世界各地にも出かけて働いた。常務取締役研究開発本部長で退き、東海電線(株)社長・会長を務める。

藤沢は電力関係電線、同軸ケーブルの開発製造に従事、日新電機に移って、大電流、低電圧のイオン・インプラ機器の企業化に取り組み業績を上げた。

藤倉電線に復員後復帰した庄司徳三は、一貫して通信ケーブルの開発・製造に打ち込み、常務取締役で退く。手堅い仕事振りで名を上げた。

通信・弱電関係に移ろう。国内通信の元締めであったNTTは戦前には逓信省のもと官業であったが、戦後電気通信省を経て、電電公社から民営化してNTTになったわけである。ここには卒業時栗山が就職したが、戦時中に惜しくも殉職した。戦後海軍に入っていた新堀達也が入省し、その後富士通に勤務している。

やはり海軍に入った阿部英三は安立電気に入り取締役から子会社安立電波工業(株)の社長を務めた。

日立をギブアップした中島俊之は、日本無線に入り、その後(株)アロカ副社長を務めた。平野宰次は日本無線を早々と退職、電元工業に入り、国際電気を合併して独立会社になり、工場長などを務めたが、病気で昭和54年に退職した。

昭和22年に復員した村橋秀雄は、日本ビクターに復帰、終始勤務した。藤原一夫も戦後、入社した沖電気に戻らず、同じく日本ビクターに入社した。退職後塾を経営、自ら教鞭を執った。

陸軍に勤めた西山 實、外地企業に入った大森 豊は戦後故郷に近い企業に勤めている。西山はクラボウに入社、大森はクラレに入り、繊維工業の発展を支えた。

久保原 弘は一時自衛隊にも勤めたが、一家を失った戦災地広島で印刷会社有文社を再興し自営した。また盛定義安はソ連抑留で昭和23年帰還、自衛隊に勤めたが、36年日本電気に入社、47年に日電アネルヴァ出向、53年社長になり、会長・相談役を経て退任した。

日下部正直は、戦後海軍から日本電気に戻らず、国鉄技研に入り、その後地崎電機製作所から自営で仕事をした。

町原 熙は戦後明電舎には行かず日立製作所系列の会社泰営商工(株)に勤務、職を全うした。

塙 宜良は不詳。星埜 衛は戦後警察庁などに勤めたとされる。

最後になるが、軍隊から昭和21年商工省電力局に復帰した武安義光は、いくつかの局の勤務後、新設の人事院に出向、公務員試験などの業務を扱ったのち工業技術院に復帰、科学技術庁が新設されると移り、基礎固めに尽力、一時通産省に戻り電力行政に携わったが、39年に科学技術庁に行き、そこが本拠になった。原子力関係に従事、動力炉開発などを手掛け、新設の動燃事業団へも出向、その後科学技術庁で事務次官を務めて退官、特殊法人理事長、政府の科学技術会議議員などを務めた。

本職以外の分野での活動

佐波正一は日本ボーイスカウト連盟理事長を務めた。

武安義光は学生時代からの「剣道」の縁で、( 財)全日本剣道連盟会長を務めている。

写真は2010年9月に中国・北京市で開かれた世界武術大会に国際剣道連盟会長として剣道部門の団長を務めて訪中、中国少年剣士の打ち込みの実演を披露した時のもの。

 第 Ⅳ 部 会員の現況

最後に会員の現況を簡単に取りまとめておき締め括りとしたい。50名余りの卒業生として世に出た会員、現在の生存者12名となった。いずれも90歳を越えている。当然病を抱えて静かに過ごし、あるいは療養している者が大部分である。以下最近得た消息を記す。

阿部英三 横浜に移り読書と散歩で悠々自適。「よき師と友に恵まれたことを感謝」。

大森 豊 10年前に肺癌の手術を行ったが、毎日近隣の散歩などを行い元気にしておられる由。

小平信彦 多少足が不自由であるが、Z会の昼の集まりに顔を出してくれる一人であり、まずは元気にしている。

今野与八 長期入院中の9月30日永眠された由、長男和近氏より連絡を頂きました。

斉藤成文 11年前に心臓病で倒れ、その後の余病もあり、通院以外の外出を控え、静養中。「戦時中の海軍時代の横須賀技研などでの杉下君との共同研究、戦後の研究生活で世話になった滝君ほか多くの級友への思い出と感謝の念を深めている」。

佐波正一 東芝の方も遅れて出勤・早退を続けておられる由。5年前から取り掛かっていたファラデーの伝記の抄訳を出版された。ゴルフもワンラウンドを全うするのが難しくなったことを嘆く。

澤野周一 怪我が多く包帯巻きが絶えません。町田のシニアレジデンスに入居。

西山 実 無事岡山で過ごしておられるとのこと。

平野宰次 悠々自適の模様。電話の声は元気であった。

藤原一夫 カトレアホームという施設に入居。話ができない寝たきりのお気の毒な状態にあるとのこと。次女の沢本久美子さんより。

町原 熙 まずは元気でおられる様子。

松岡 実 読書・散歩・碁・酒の四つが現在の行動様式とのこと、13年前に夫人を亡くされて一人暮らしを元気にしておられる。

百田恒夫 伊東に転居。22年11月24日に亡くなられた由、ご遺族より連絡頂きました。

武安義光 いろいろ医者にかかっているが、まあ元気で年なりに活動している状況。

高林乍人 6年間入院しておられたが、22年5月8日に亡くなられた由、ご遺族より連絡頂きました。

中村欽雄 大変元気で、Z会の世話役も務め極めて綿密、適格にお世話して頂いていた。体調を損ね幹事を譲られたが、急に病状悪化、21年9月入院、22年6月10日に逝去された。晩年卓球に打ち込まれ、多くの大会に出場するなどしておられた。『わたしの卓球人生』をまとめておられる。

なおこの10年、残念なことであるが次の会員が世を去られた。

 花形 澄 13年 6月 6日
楠 順三 13年11月25日
 盛定義安 14年 6月28日
市川真人 14年 3月12日
 奥村 宏 16年 2月24日
小松改造 17年 1月15日
 須藤卓郎 17年 4月13日
村橋秀雄 17年 6月22日
 塙 宜良 18年 7月18日
西島輝行 18年10月29日
 河崎太郎 19年 1月26日
庄司徳三 20年11月  日
 三輪高明 21年 5月17日

 むすび

さて不十分な資料であるが、一応のまとめを行って顧みると、我が級友の働きは総括的にどう評価できるだろうか。戦争の影響を最も受けた我々であったが、戦中は無線兵器の領域や教育に、他の学部の人と比べて大きく貢献している。戦後は日本国経済の再建を合言葉に、貧困のなか大部分の者が、技術者として、また教育者として働いてきた。日本経済の復興発展に、若手としてそれぞれ充実した活動をし、貢献したといって良いのではないかと思う。外地や軍に勤めた者、兵役で苦難を味わった者はいるが、多くの者はこれを切り抜けて、皆手堅い仕事と生活を築いている。一旗揚げた成金組はいないが、条件を考えれば、総じて同窓の中ではまあまあの評点が与えられると自賛したい。

あと僅かの日で訪れる卒業70年の会をできるだけ多くの者で祝いたいと思っている。

以上同期生の卒業後の活動を、第三部そして入手し得た情報に基づき綴ってみた。

卒業70年を前にして、第一稿として、今後の充実を図ることする。共に学び社会に出た友に感謝しつつ、現存の会員・遺族に報告すると共に、亡き友、指導頂いた先生方に捧げる。

なおこの資料作成に当たり、中村君などが骨折られた『卒業六〇年記念誌』に負う所が大きい。

また長い歴史を持つ「電気工学科同窓会」にもその一コマとして提供し、同窓の方々に参考にして貰えることを願っている。

 ―付記―

 終わりに当たり大学当局・同同窓会に一言お願いしておきたい。それは電気工学科卒業生の活動状況・業績をもっと把握し、これに関する資料も充実し、関係者に開示して頂きたいということである。

 これは電気工学科の人材養成の歴史を示し、年代を超えた同窓生の親睦を図る上で役立つし、広く見れば今後の電気工学科を目指す人にも参考になると考える。我々も明治時代の卒業生であった小平浪平・野口 遵・渋沢元治、大正時代の仁科芳雄などの先達の活動を聞いて勇気づけられたものである。本資料はそのことを目指したものではないが、多少の参考にはなるであろうと期待している。

電波報國隊/昭十九会

本稿は東京大学第一・第二工学部電気工学科、昭和19年9月卒業のクラス会「昭十九会」が平成16年に編纂した、昭和18年9月から19年3月までの学徒勤労動員の記録です。

目 次

学徒動員の背景、電波報國隊の誕生 /矢部五郎

電波報國隊の記録(第一工学部) /島田博一

電波報國隊の記録(第二工学部) /大西順一郎

K-装置の開発 /矢部五郎

3号電探 /矢部五郎

電波報國隊 /平野忠男

東大航研での電波報國隊 /丹羽 登