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  • IoTと細胞科学そして仏教/鳥越寿二

    ○コンピューターの普及によって知的なデスクワークを処理するオフィスは一変した。生産の現場である工場においても、センサーや操作機、ロボットの開発と相まって、現場に殆ど人影が見られないようになった。

    一方コンピューターと電気通信が結びついた「インターネット」が日常的なツールとなることにより、人は時々刻々国の枠をも越えて容易に情報を発・受信することができるようになった。情報通信技術(ICT)の進歩によって、i-フォンやタブレットといった移動端末が大衆に普及するに伴い、地球上には膨大な量の情報が飛びかわされている。これを巨視的に捉えるときには、端末所有者の意図とは別次元の新たな情報が「ビッグデータ」として浮かび上がってくる。これを社会生活やビジネスに有効に活用する動きも始まっている。

    一方、人を介してのインターネットという枠を取り外して、センサーや発受信器を車や機械、家屋や社会インフラなどに組み込んで、「もの」や「こと」がインタ‐ネットシステムに直接関与する ”Internet of Things”(IoT)という構想が世界同時的に打ち出され、ビジネス戦略としての成果も発表されつつある。今年が「IoT元年」になるだろうとも言われており、IoTの展開が、コンピューターの出現同様ビジネスや人の生活の基本に関るような変化をもたらすものとなるのではないかと注目されている。

    IoTについて上述のような初歩的な知見*1を得た時、私にはIoTが描く世界というものが、昨年NHKで4回にわたって放映のあった、山中伸弥教授の「細胞科学を通してみた人体の神秘」の世界*2、紀元前5世紀ごろに仏教を開いた釈尊の教えにも共通する「人とは何か、人はいかに行動すべきか」という根源的ともいえる問題に結び付くものがあるように思われた。

    ○ 山中教授によると、
    “人の体は凡そ60兆個の細胞から成り立っている。個々の細胞には寿命があり、短いものでは1日単位で新しいものに入れ替わっており、1年過つと全体の99%は違う細胞になっている。ただ心臓の細胞と、脳の神経細胞は、生まれた時の細胞が一生使われている。そしてこれらの細胞が、(赤血球を除いて)核内にDNAを備えており、夫々がその時その時の状況に応じてDNAを読み解きながら戦略的に働いている。細胞同士がつながってネットワークを作り、最終的に体と心を生み出しているのである。

    細胞は、「体を構成する部品」と捉えられることが多い。DNAという設計図から作られた単なる部品だと。しかし、その認識が間違いであることが近年の研究で明らかになってきた。細胞は1つの自律した生命体のように、自ら周りを探り、状況を判断し、自らを変化させているダイナミックな存在なのだ。そしてこの細胞のなかに、我々の経験を反映する仕組みが隠されている。”

    (以下は私の所見であるが)我々の気持や思考などのすべては、数でいえば細胞全体の数%にも当らない脳・神経細胞を通してしか自覚することができない。圧倒的多数の細胞は意識に上ることなく、黙して自己の生命と種族維持のために働き続けている。こうした細胞の働きは他の動物や植物でも同じであろう。ただ人間は直立したことから脳が格段に発達し、他に類を見ない「知性」なるものが育くまれてきた。と同時に、この知性があることによって絶対的ともいえる「自我意識」を持つ存在となった。

    ○ IoTの世界に思いを馳せるとき、人体の神経細胞がIoTの通信回線に相当するものといえそうだが、二つの間には次のような違いがあるように思われる。

    (1) 人体には個人の意識の根源ともいえる脳が存在する。IoTの場合は、これをシステムとして構築する主体が人体の脳に相当し、国や企業がそのシステムの主体でありうるであろう。しかしIoTの伝送回線である通信網に限って言えば、それは公共的なインフラであって、その活用には規律が要求されるものの、神経系統における脳のような絶対者があってはならないであろう。

    (2) 神経細胞は眼、耳、鼻、舌、身という五感のセンサー細胞が受けた刺激を脳の感覚領域にまで届ける。脳では視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚として認識され、感情を生じ、これをもとに判断、記憶、意志が生じ、その信号を別の神経回路によって言葉、行動、内分泌などの身体機関へ伝達する。IoTの場合は、人体における「端末から脳へ」に相当する「端末からプロバイダーを通してインターネットに向かう」信号の流れも、「インターネットから端末へ向かう」信号の流れも、総ての情報は電気通信回線を介して交換される。

    しかし人体の場合、山中教授によれば、細胞のうちのほとんどを占める神経細胞以外の細胞も、DNAの働きによって自律的に相互に信号のやり取りをしながら働いているということである。数十億年の歴史を持つ生命の神秘としか言いようがないが、将来的には科学の進歩によって、このような細胞の働きの実態が原子レベル、更には素粒子レベルで解明される時代も来ることであろう。そうしたものの見方はIoTを進める上でも参考になることと思う。

    ○ 仏教では人体だけでなく、宇宙の全体を思索の対象として「一切衆生悉有仏性 如来常住無有変易」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょうにょらいじょうじゅうむうへんやく)という言葉がある。道元はこれを漢語のまま、「一切は衆生であり悉有が仏性である。如来は常住であり無であり有であり変易である。」「この世界において(人も山も河も大地も)一切は衆生である。その全体が仏という真実である。仏はこの世界に常に存在し、無であり有であり、生死を離れた変易である。」と読んでいる。*3

    この言葉に接しても、しばらくは実感がわいてこない。こうした禅問答の参考になるのは、AD1世紀から2世紀にかけて大乗の仏教思想を築き上げたインドの哲人竜樹(ナーガールジュナ)の次のような詩である。*4

    ・仏が説いた教えの中には二つのレベルの知覚がある。
    (1)習慣的な意識に認識される日常的事実
    (2)意識を超えて顕現する究極の真理

    ・事実と真理の二つの区分があるということを理解しなければ、釈尊の深遠な教えを理解することはできない。

    ・日常的な事実を理解することは、究極の真理を理解するための必須の前提である。そして究極の真理を理解しなければ、悟りの世界に至ることはできない。

    ・この世界に、相互関係(因果・縁起の波紋)によって生起しないものは存在しない。相互関係は時間と空間のどこまでも続くから、ものごとに実体的な本質というものは無い。そのような性質を「空」(empty, emptiness)と名付ける。そうすると、この世界に「空」でないものは存在しない。

    ・すべてのものが「空」であるからこそ、人は行動を自制して世俗的な穢れから離れることができ、それによって苦しみを終らせ、悟りの世界に至ることが可能となるのである。

    ・ブッダが自らの修行の体験から、苦しみを終らせ悟りの世界に至るために、人が歩むべき道として教えたものが「八正道」(The Noble Eightfold Path)である。

    ○ 仏教で「苦しみ」と言うとき、それは人が抱える死への恐れや病の苦しみを指していると捉えられがちである。しかし元々ブッダが慈悲をもって癒した人々の「苦しみ」は、日常的に次々と起こる、あらゆる種類の問題であった。「苦しみ」の語を「課題」と読み替えれば、それはIoTの構築と活用といったことも含めて、21世紀の我々の生きざまにとっても、新鮮で深い示唆を与えてくれるように思うのである。

    ブッダが苦しみを解決するための道として説いた「八正道」は次の8つである。

    (1) 正見(しょうけん、Right view)ものごとを正しく見ること
    上述のように知覚には2つのレベルがある。道元はこのことを教えるための例として「薪が灰となる。しかあれども灰はのち、薪は先と見取すべからず。」と言っている*5

    意味するところは、薪が時間的に前にあって、それが灰になったと見るのが常識というものであるが、それでは視点が「薪」だけ、「灰」だけに捉われていて、全体的な相互関係という真実を見失っている。真理は「薪が薪という形で存在していた世界の悉有の相互関係の姿」から、「灰が灰という形で存在している世界の悉有の相互関係の姿」に「因果と諸縁の組合せ」によって変化したとでも言えるであろうか。

    日常的な知覚は神経と脳が働いて知性的に把握するものである。しかし究極の真理というものは、知性を含めその背後にある超知性の世界観といったものであるから、知性の産物である言葉で説明し尽くすことは難しい。八正道の(8)瞑想Right concentrationにより超知性の世界を、知性の世界に反映するように修練することによって、人はそれを悟りの体感として会得するのみである。

    道元はこの「薪」と「灰」の話を敷衍して「生の死に移ると心得るは誤りなり。」と言っている。*6 その意は、「常識的には生きている私が死ぬと考えるが、悟りの真理からはその見方は誤りだ。」ということである。この表現のすごいのは「薪と灰」の場合は、薪も灰も観察者たる私から離れた客体であるのに対して、「生と死」は観察者である私自身の生と死を客観的に見ていることである。視野を広く捉われないものにすることは、見ている自己そのものを特別なものとして差別することをなくする。

    「生の死に移る」は「私の生のある時の世界悉有の相互関係の姿から、生が滅した時の世界悉有の相互関係の姿へ、因果と諸縁の組合せによって変化する」と会得することである。そして実は、素粒子論を持ち出すまでもなく、「世界悉有の相互関係」は、私が生きている時も死後も永遠に、時々刻々・不常不断に変化を続けているのである。

    知性から導かれるこの超知性の世界観を実体感できるようになれば、死の恐れは克服される。

    (2) 正思惟(しょうしゆい、Right intention)正しい人生目的を持つこと。自己中心の矮小な願望を捨て、生死を超越してあらゆるものに慈悲深くあろうと決意すること。

    (3) 正語(しようご、Right speech)正しい言葉づかいをすること。無畏経に「如来は 事実に基づかない言葉、真理でない言葉、有益でない言葉、相手が慕わしく思わない言葉、相手が心地よく思わない言葉は話さない。

    如来は 事実に基づく言葉、真理である言葉、有益である言葉、相手が慕わしく思う言葉、相手が心地よく思う言葉であっても、それを話すのに適切な時宜を分別する。

    何故か。――如来は衆生を思いやる心を持つからである。」とある。私の好きな言葉である。

    (4) 正業(しようごう、Rright action)正しい行いをすること。
    不殺生・不偸盗・不貪淫など、体と口と心の動きを自制する。

    (5) 正命(しょうみょう、Right livelihood)正しい生活をすること。正しい生活習慣を心がける。正しく生計を立て、職業倫理を守る。

    (6) 正精進(しょうしょうじん、Right effort)正しい努力を続けること。道元は繰り返し「厭うことなかれ。願うことなかれ。」といっている。*6 悉有は仏性である。嫌と思うことを厭うことなく、身勝手な願いごとに執着することなく、何事にも真っ直ぐに向き合うべきである。

    (7) 正念(しょうねん、Right mindfulness)注意深くあること。大切なことは暗記する。唱名する。咄嗟の時にも貪り、怒り、愚行に陥らぬよう心構えを養う。

    (8) 正定(しょうじょう、Right concentration)正しい精神統一、瞑想・坐禅の時を持つこと。日常生活においても、「調身」・「調息」・「調心」=姿勢を正して力を抜く、呼吸を調える、心を静かに保つことを習慣とする。

    ○ IoT(もののインターネット)というテーマのもとに、人体の仕組み、人の悟りといったことについて思いつくことをまとめて見た。

    Things(ものごと)という物的存在と、インターネットという知的な媒体とを結び付けることが、人体における脳神経系統と全細胞との結び付きと類似している点と異なる点、肉体と精神(体と心)を綜合した修行によって到達される仏教の悟りへの道が、IoTに示唆するもの、といったことについて、この未熟な論考から幾許かでも汲み取っていただけるものがあれば幸甚である。

    ー・-・-

    *1 週刊ダイヤモンド2015/10/3 「いまさら聞けないIoTの全貌」
    *2 「山中教授×野田秀樹の細胞対談」 日経ビジネスオンライン
    http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140325/261750/
    *3 道元「正法眼蔵 仏性」
    *4 George Cronk “ NAGARJUNA THE FUNDAMENTALS OF THE MIDDLE WAY” http://www.cronksite.com/wp-content/uploads/2014/02/NagarjunaGC.pdf より拙訳
    *5 道元「正法眼蔵 現成公案」
    *6 道元「正法眼蔵 生死」

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